2010年8月 4日 (水)

街のなかで

Aug10

留守をしていた。関西への出張で、丸2日間、昼間は取材、夜は懇親と、この酷暑を考えれば動き過ぎ(働き過ぎとは言えないが)、ヘバっている。

エピソードを幾つか、追ってアップしたいが、まずは、帰途の東京駅での「発見」。

東京駅舎が大きく変貌していた。正しくは、その途中というか、工事中なんだけど、見掛けがまったく変わっていたのには驚いた。
いやあ~、「なにをいまさら」だろうけれど、日常的なこの駅での乗り換えは常に屋内のこと。外に出たのは久しぶりだったのだ。

上の写真を見ても、この界隈の勤め人か、よほどのツウでなければ、これが東京駅だとはわかるまい。実際、当方はバスでのアプローチだったのだが、「ん? ここはどこだ・・・」と訝った。で、「ほぉ~」と思い、カメラを向けた。

改築の内容については、調べるのが面倒なので説明なし。誰かがコメントしてくれると幸せ。

ちなみに、大阪でも、生まれ故郷・天王寺界隈が変身中だった。この写真も、皆さんにはよくわからないだろうけれど、近鉄百貨店(阿部野橋店)。ここで待ち合わせしようと試みたのだが、土地勘のある両者、目に映る光景の違和感に少し慌てた。

街は、たしかに変わっていく。人も。うん、このところ、ベタベタの関西弁を耳にする機会が減り続けているもんなあ……。

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2010年7月 3日 (土)

感動をありがとう!!! ???

1億サッカーファンを敵にまわすが、って、それは大袈裟か、でも拙ブログに出入りされる何人かのネット友の熱い感覚に水をさすだろう……としても、やっぱり言おう、この感動の押し売り、気持ち悪い。

一人ふたりが、普通のトーンで、良い試合だった、感動した、ありがとう、と、つぶやくのをアホだとは言わない。それは、ぼくが如何にサッカー嫌いであっても、自然な反応だと思う。

だが、マスメディアの沸騰ぶりは、いささか異常で、そこに映し出されるすべての人々の口から「感動をありがとう」との言葉が出てくると、もはや背筋がゾッとするほどの、いやらしさだ。コアなファンならまだしも、ルールすらよく知らない「にわか」ファンまでもが、コーフンする。

このところ、日本人は、やたら感動したがっているようにみえる。WBCもそうだったし、北京オリンピックでも。繰り返すが、感動するなと言いたいわけではない。あまりにも、興奮しすぎるのだ。そして、「ありがとう」。

こうした熱狂的な姿勢は、ファンだけでなく、メディア側にもある。コメンテーターやら解説者やら、皆さん、同様のトーンで叫ぶ。報道する立場なら、もう少し冷静さが必要なのではないか。伝え聞くところによると、戦いの前、日本チーム監督への信頼は薄かったらしい。それが、ちょいと勝ち進んだ結果、手のひらを返しての絶賛へ。

よく見る光景ではあるけれど、でも、結局はベスト16だったんだよね。監督はベスト4を狙っていたとか。もちろん、褒めるべき部分もあるのだろう、けれど、負けは負けとして、きちんとした分析・反省も必要ではないか。

そうした緻密な精査を回避したがるのは、この一件に限らない。ニュース報道、その周辺でも、安易に「謎」や「空白」「闇」を前面に出したがり、その裏での地道な調査なり取材から逃げているかの、そう、安普請が目につくのだ。

頑張った者への拍手は当然だ。しかし、およそジャーナリズムなら、「ありがとう」で終わらせてよいのか。むしろ、この大合唱に違和感を覚えるべきではないか。

サッカーファンでもなく、スポーツファンでもなく、いわば「日本人チーム」ファンの増殖に、ぼくは、本当に、吐きそうになる。

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2010年5月24日 (月)

インフレは始まっている?

どうも、デフレがわからない。いや、これでも、かつては経済記者だったから、その意味は承知しているし、この国の経済がひところデフレスパイラルに陥っていたことも理解する。

でもね……。「主夫感覚」としては、物価はジリジリと上がり始めているように思う。いつのころからか、定かではないけれど、ざっくり、1年前あたりかな、我が家計が徐々に膨らみつつあるのだ。

たとえば、相方に飲みすぎとの警告を受ける牛乳、数年前まではストアブランド(SB)で2本300円の安売りがよくあった。これが、1本158円、そして168円、いまや178円に。「おいしい牛乳」とかのナショナルブランド(NB)では、もうめったに目玉商品にもならない。

物価の優等生・たまごは一見、10個入り198円をキープしているが、見知らぬブランドが増えてきて、ちょい高級っていうのか、黄身のしっかりしたやつの安売りは少なくなった。同様に、食パンも、1斤99円はSBになってしまい、ぼくの好きな「超熟」はレギュラー190円くらい、セールでも169円までしか下がらない。

大好きな鮪は、外的要因も手伝って、100g198円の目玉セールをやらなくなった。日替わり特価でも258円。鰹も以前は同99円なんて珍しくなかったのに、いまや128円がミニマム。ざっと2~3割、あがっている計算になる。

たしかに、ユニクロの守備範囲では下落を続けているだろうし、地デジ対応液晶テレビも、1年ちょっと前に買い換えた当方がアタマにくるほど安くなった。牛丼しかり。デフレ状態の続くカテゴリーは確かにあるし、一部では泥沼的「値下げ戦争」とも言える。

一方で、付加価値を高め、価格競争に巻き込まれないモノも少なくない。もちろん、それは真っ当なことである。

しかし、ここで言いたいのは、質を落としての値下げも最近、多いのではないか、スタンダードな商品は、むしろ上昇に転じているのではないか、ということ。価格は据え置きでも量的に調整して、つまり、実質引き上げているケースも見受けられる。

メディアは、「ちょっと高め」「ちょっと良いもの」が売れているとして、「節約疲れ」を口にする。ぼくは、供給者側の「値下げ疲れ」を指摘したい。

この話、実は数か月前から取り上げたかったのだけど、きちんとしたデータを提示できないまま、時間が経過してしまい、なにやら、世の中の動きが「デフレ脱却」に向かい始めたような感覚もあり、見切り発車で、書く。

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2010年3月 6日 (土)

啓蟄

いつものごとく月例の多忙期、「空自官製談合」も気になるが、それよりも。

今朝(3/6付)の朝日新聞に、奈良と埼玉とで続けざまに起きた、いわゆる「虐待死」に関して、幼い命をどう守るかという視点での記事が載っているのを読み、手ぬるいと感じた。

異変に気づいたら匿名でもいいから役所または警察に一報を、という。この指摘、間違ってはいない。だが、いまのままでは、通報する人が増えることはあるまい。事が「しつけ」との絡みで微妙な領域にあるからだ。

ぼくは思う。こうした事件は「殺人」容疑で調べるべきだと。

逮捕された親は「保護責任者遺棄」もしくは同「致死」である。納得できない。直接的にはそれでもかまわないが、(本当は「殺人容疑」だと皆が思っているのに断言しきれないときのメディアの常套句である)「殺人罪の適用も視野に入れ慎重に調べを進める」べきではないか。

過去にも同様のケースはたくさんあったと記憶するが、とくに奈良の事例は、3年間に及ぶ「虐待」の中身が尋常ではない。激しく痩せるまで食事を与えず歩けないほど衰弱させた行為は、「虐待」とか「暴行」の範囲を超えている。

これは、緩慢な、長期的な、殺人行為ではないか。少なくとも、そう疑って然るべきだと信じる。言い換えれば、じわじわと殺していったのである。殺人罪の中でも悪質だと思う。

そのうえ、相手は幼子。当初は言葉を発するのも覚束ない年齢で、抵抗などできるはずもなく、自力で逃げることも不可能だったろう。ぼくは、これを「虐殺」と呼びたい。

「虐待」と「しつけ」との狭間ゆえ、人々は悩む。子どもの泣き声が聞こえてくるが、これはちょっと厳しいしつけなのではないか、そうであれば安易に介入できないなあ~と。

だから、認識を改めよう。「虐待」ではなく「虐殺」と「しつけ」との狭間で考えてみる。そうしたら、いまよりは少し多くの人が通報するようになるかもしれない。いかに人情薄い昨今とはいえ、座して子殺しを赦すことはそうそうあるまい。

きょうは「啓蟄」。春の訪れも近いが、首都圏ではまたもや冷え込み、いましばらく冬が続くようだけど、この、子どもをめぐる問題は、いまから冬に向かっていく感が強い。

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2010年3月 2日 (火)

忘れてしまいたいことは多いけれど

ニュースなどで報じられる、チリの人々の悲痛な叫びには、もちろん心を痛めるけれど、ぼくの知る限り、推測できる限りにおいて、沿岸地帯に居住の、このブログの読者はいらっしゃらないようなので、つまり津波の被害を被ることはなかろうと考え、触れるつもりはなかったのだが。

気象庁が過大な予測を謝罪したと聞き、それはないだろうと感じる。過小評価した結果の怖さを、われわれは50年前に経験している。あのときは、過小どころか、まったくといってよいほど無防備だった。ぼく自身、明確には覚えてないけれど、津波が物凄く恐ろしいものだということは脳裏に刻まれている。

予報の精度や、それが的確・適切だったか、そういった部分は検証する必要があるだろう。けれど、いきなり謝ることはない。誰が、何が、そうさせたのか。担当課長に対して国交省からの指導みたいものがあったようではない。では、なぜ? 苦情でもあったのだろうか。

正直な話、2月28日のテレビは警報を伝える列島の地図入りで放送され、煩わしく思った。ぼくも、メールで相方に毒づいた。でも、これは、「必要悪」とまでは言ってはいけないかもしれないが、仕方のない処置である。この防災システムができあがるまでに、どれほどの命が犠牲になったか。そのことを忘れてはいけない。

メディアによると、避難していた住人の多くが、より大きな波が予測される第2波以降の到達前に帰宅したという。今回は事なきを得たけれど、個々の判断に任せてよいのだろうか。

当該自治体は、避難を「強制できない」とする。なんだか、よく耳にするフレーズだ。家庭内暴力や虐待などの通報に対する態度にもみられる、この弱腰は、一方で、ちょっと声の大きいクレームには過剰反応する姿勢と、どこか通底していないか。

あの教訓は、そののちに役立ったはずだが、そうした記憶すら薄れてしまうのか。半世紀も経つと、体験は風化するのだろう。

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2010年2月15日 (月)

ドレスコード

イヤな世の中だ。
できれば明るい話題を書きたいと思って、いろいろネタの思案をしていて、でも、グチっぽい話ばかりなので、どぉしよかなあ~と、ためらっていたのだが、やっぱり取り上げよう。どうせ、ここの読者には「独尊オヤヂらしいカミツキ」と言われるのだろうけれど。

ついに、スポーツ競技のひとつにまで「品格」が問われる時代になった。もちろん、オリンピックという舞台で「日の丸」を背負っている状況ではあるけれど、だからといって、ここまでヒステリックに反応する必要があるのか。

相撲の場合は、「道」という言葉が付いていて、とりあえずは「国技」だとすれば、横綱としての品性が求められるのも、まあまあ理解できる。納得できない部分も多いが、あちらは「犯罪行為」に絡んでいたし、かつてのボクシングの事例は明らかな反則行為だった。

でも、たかが服装じゃないか。それも、スノボー。五輪に相応しいアイテムかどうかアヤシイのに、「ヤング層へのアピール」とかで、つまり人気取りで加えたという、そもそもイヤらしい思惑すら感じる。そのなかでの、若造のツッパリにすぎない。「強制送還」までチラつかせるとは、とうてい看過できない。

念のために。ぼくも、あの格好は好きではない。街中で見かけるに、不愉快である。今回のケースでは、公の存在による公の場での「無礼」だと認識する。

しかし、「国費を投じている」「代表選手だから」「スポーツマンらしくない」との批判の大合唱は、大袈裟だ。そのうえ、入村式や開会式を「自粛」させるなんて、大人気ない。内部で「厳重注意」すれば済むことではないか。

もちろん、個人のレベルで、居酒屋で、社内の井戸端会議で、「だらしない」と非難するのは自由だ。ぼくも、そうする。

だけど、選手団側だって当初は、問題視していなかったはず。着崩したままでテレビカメラの前に立たせたのは誰だ? 監督なり周囲の「おとな」は注意しなかったのだろう。なぜ? マズイとは思っていなかったからに違いない。

なのに、ちょっと抗議されただけで、ヘナヘナとなる。あんな半端な会見(初回のもの)をするものだから、バッシングを受ける。過剰に反応する。メディアが大きく報道する。もはや引っ込みがつかない。選手団長まで登場、謝罪会見となる。「責任」なんて次元に発展してしまう。

繰り返す。あの若者は非常識である。監督責任のある者がバカヤロウと叱るべきである。だが、「事業仕分け」まで持ち出し、応援会が中止になるような「騒ぎ」にしてはいけない。

「尻馬に乗る」ことが風潮になってしまった、情けない渡世は、生きにくい。

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2007年12月22日 (土)

「空白」の28年

今年一番の衝撃は「江川クンと小林クンのTVCM出演」だ。実年齢、当方より若干下の、この二人の再会にインパクトがある理由は、省略。だいぶ昔のことで、若い人には「?」だろし、一言でも語るのに40歳を過ぎていないと難しかろう。実際には、ぼくらくらいから上の世代にとっての話になる。わかる人にはわかる。
10月半ばだったか、テレビで初めて接したときの驚きは、相当なもので、当初数回は、食い入るように見た。バージョンも更新されているようで、少しずつ、話の中身が異なる。次が見たい。他の会話が聞きたい。ぼくはエキサイトした。そう、あくまでも「当初」は。
ぼくは、しかし、評価しない。
継続されているところから察するに、大方は好意的なのかもしれないけれど、ぼくには辛い。二人への印象が悪化するだけ。スポンサー企業にも反発してしまう。なぜって、あんな断片的な、言葉の羅列だけで、「あの」事件を、さも懐かしがるように語ってもらいたくないのだ。
この28年間、二言三言では当然、語りきれない。実際、二人の会話は3時間ほどに及んだらしい。そのなかの、かなり恣意的に選んだ、ただのピース、ぶつ切りを見せつけられて納得できるものではない。いや、ぼくは、詫びろ、とか、ファンへの説明責任などを持ち出したいのではない。いくらなんでも時効である。いまさら、なにも求めない。
だが、口火を切ったのは、あんたたちだ。コマーシャルだろうが何だろうが、当事者が口を開いたのである。だったら、もっとちゃんと話してよ。それを、あんなふうに、もったいぶって、ひとの興味をそそっておきながら、細切れ。そのうえ企業広告っていうんだから、まったく、信じられん。卑怯モノっ!!
あれだけ世間を騒がせたんだよ、あなたたち。いや、もちろん、二人だけの問題ではない。いろいろな輩が関わっている。それらの人々の多くは、もはや鬼籍に入った。だからこその、いま語る、回顧談なんだろうけれど。だったら、しっかり知らせようよ。そのくらいの責任、あるんじゃないの?
繰り返すが、黙ったままでもよかったのだ。とくに、小林クンは引退して、あれ? 野球評論家なの? だったら、いまなおギョーカイ人か、ふむ、ま、にしても、いちお、江川クンのようにはメディア露出していないんだから、市井の人として、責務はもうない。だけど、こうして出てきた以上は、「酒を酌み交わしつつ、ずっと胸のうちに秘めていた思いを語りあっ」た内容を、ちゃんと披露してくれ。それがオトナというもんだろ。
つい毒づいてしまった。好きだったからね、小林クンのこと。江川クンも意外に憎めないキャラだし。実のところ、当時は日本にいなかったし、やや傍観者。イマイチ「大騒ぎ」の実感に乏しいのだ。正直な話、当該球団のグループの末端に関わる仕事もしていたし。そんなには批判的でなかった。「うまいことやるもんだ」とすら思った。でも、野球史上に残る「スポット」であることは疑いもない。「汚点」とまでは断言しないが。
2007年を象徴する「偽」の文字のとおり、今年は冒頭から頭を下げ続けた企業(および組織)トップ・幹部。かれらには、特段の期待はない。そういうものだと諦めている。だけど、小林も江川も、いまは「個人事業者」のはず。後者は某球団との距離感から、そうとは断定しにくいけど。個人は、どこまでも「自己責任」だからなあ~。

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2007年12月10日 (月)

年賀状を何年やすんでいますか?

みたび、都バスの話。新橋駅から六本木ヒルズまで乗った。日曜日の朝、道路も空いていて、スイスイと。公称18分を15分弱で。快挙。今回はルートが観光名所でもあり、家族連れや若い人のほうが多かった。てゆか、ぼくが最高齢だったかも……。
地下鉄でも行けるのだが、乗換えが面倒、しかも「これだけ歩かされて同じ駅??」というのが東京にはあるし、かなり深くまでもぐらないといけない駅もある。もちろん、メタボなわたし、エスカレータを使うけれど、これが最近気に障る。
以前にも書いたことだが、あの、まったく訳のわからん片側通行スタイル、あれがダメ、赦せないのである。エスカレータは、じっと立って乗るもの、駆け上がったりしてはいかんだろよ。想定外のことゆえ製造メーカーも困惑しているとか。消耗が激しくなるらしいし、安全性に影響が出るかも。そのうち、大きな事故が起こるに違いない。
朝の通勤ラッシュ時の大ターミナル駅は例外としても、ほとんどの場合、そうしたセッカチは少数派。おかげで乗り口あたりの混雑、目を覆うばかり。東京では右側を空けるので、左側には列が長く、長く、長く。なんで、一部のヤツのために大勢が迷惑を甘受しないといけないのかな。
そのくせ、上りをせっせと歩くコイツら、着いたとたん、ふつーの足取りで、ぼくに追い越される。別に急いでいたわけぢゃないんかいっ! こちとら、水平移動ならお得意。 はっきり言って邪魔になるんだよ! どけどけっ、てな具合。するとなにかい、上りのエスカレータは、あんたのエクササイズかジムの代わりか!!!
ま、そんなこんなで不愉快なことも少なくないので、このところ、バスを利用する機会を増やしている。すでに指摘したように、現在の都バスは、高度のユニバーサルデザインになっている。「老」の世界に近づきつつある当方、とってねラクチンなのだ。たとえ座れなくても、てすりのバーが完備されているしね。
1209_4 あぁ、ちなみに、前夜の忘年会でやや酔いすぎの身なのに日曜早朝早起き「ヒルズ」は、仕事。日本郵政(JP)の「年賀状を贈りましょう」キャンペーン、今週いっぱいやっているそうだが、その「始状式」という名のオープニング。「元祖ブログの女王」と紹介された眞鍋かをり嬢、艶やかな振袖姿で愛嬌を振りまく、その様子に、さすが芸能人だと、ちとカンドー。
だって、社長の西川善文氏なんぞ、あのマジメな表情のままで。「最後のバンカー」とか称されるが、その実績はともかく、いまは郵便局の大ボスなんだから、愛想は必要だよね。08年用年賀状は2億枚も増やし、その07年はかなり売れ残ったわけだし。そうした現状打開のための、せっかくの販促イベントなのに。果たして、昨日きょうの、ニュースや新聞には、その振袖姿しか載ってない、それも小さい扱い。一般人相手の商売だと自覚しようね。

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2007年11月18日 (日)

都心のバス

翁の「ご隠居」発言に触発されて。
先日、取材で、久しぶりに浅草界隈へ。電車で行けたのだが、時間に余裕があったので、程よいところでJRからバスに乗り替えた。単なる気紛れ。忙しいときは電車を利用する。昨今は「オンタイム」でもないことが珍しくないが、それでも、バスは、ちょっとリスキーだからね。
都バスって、数年前から感じているが、だいぶ進化しているね。乗り降りは、可能な限り、グラントレベル、つまり段差が小さい。優先席も全体の半分近くある。手すりというのか、バーの数も増えた。降りることを知らせるブザー、これも、昔に比べたら、たくさん備え付けられている。満員時に手の届く範囲にブザーが無くて慌てた記憶があるけれど、もうそんな心配は要らない。降車ドアも、すぐには閉まらない。完全に停車してから立て、と、繰り返しアナウンスする以上、降りる客がまだいないか、きちんと見守るようになっている。
乗客のメインが高齢者になっているんだね。そのための配慮だ。実際、乗ったバスも老人ばかり。一般席にも、ぼくより明らかに年上の客が座っている。事実上、全席がシルバーシート。当方も、さほど若くはないし、できれば座りたいとは思うが、でも、つい遠慮してしまう雰囲気。いや、文句を言いたいのではなく。若い人がほとんど乗っていないから、当然、乗客の「平均年齢」が高いわけで、ぼくなんか「若造」になってしまう。
たまに見かける若い人は、子連れ。幼子を抱える女性。とあるバスストップで、ベビーカーの母親あり。さすがに、乗車口は狭く、広めの降車ドアから乗ってきた。臨機応変な対応は、運転手の指示。ほぉ~と感心。そんな態度は、ぼくが都心に住んでいたころ、だから、四半世紀前か、そのころは、ついぞ見られなかった。
変わったなあ。都バスにかぎっては、いまや、まさに「下駄代わり」の存在。電車は高架だし、地下鉄は潜りすぎで、もちろんエスカレータやエレベータが完備しているとはいえ、当方がときおり利用の「広尾」など一部に未だ長~い階段の駅もあり、バスの利便性は高い。200円均一だし。スイカも使えるようになったし。
路線や運行情報も、インターネットで把握できるようになった。ま、現実には網の目のように走っているから、なかなか全体像は掴みにくいけれど。でも、ホント、便利だなという実感は、以前に比べ強い。そう、つまり、ぼくも「シルバー世代」に差し掛かっているわけで。こりゃ、トシをとったら都内に住むほうが、ラクかも。

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2007年10月26日 (金)

まっちぽんぷ

「亀」の問題を書く気はないが、だって、これ、野次馬としての好奇心では見られるけれど、それ以上の話ではないと思うのよね。ただのパフォーマンス。それがチョット失敗しちゃったね、というレベルでしょ? ま、ボクシングファン、スポーツ好きの人には看過できないことかもしれないけれど。で、そのどちらでもないぼくとしては、しかし、「マスコミって煽るだけ煽って、一転、よってたかって叩く」ということで批判的に語る向きがあるんだけど、うぅむ、ナンダカナア……と思ってしまう。
結論を先に言えば、所詮、メディアって、そんなもんだろってこと。大手日刊紙やテレビ局などは「第4の権力」なんて言われるけれど、たしかに「力」はある、でも、「権力」としての「品格」など持ち合わせていない、本質的に。ま、政治家という「権力」にも「品格」はないよね、っていう話になると、生々しすぎて……。さておき、もともと「瓦版」、見てきたような嘘を書く、は言いすぎではあるが、たとえ本当のことだとしても、面白おかしく伝えるのが「業」ではないかな。天下国家の大切な論議を、単に楽しさ重視だけで報道されては、そりゃ困っちゃうけど。でも「楽しくなければテレビじゃない」とかなんとかアピールしたテレビ局、たしかあったよね。
最近でも、というほど覚えているかどうか、「ホリエモン」が話題の中心になったときも、みなさん、煽りに煽ったけど、それは、メディアの本能に従っただけだと思う。だって、少しでも真面目に考えたら、あの会社に「実業」と呼べるようなものはほとんどないことがわかる。あそこの見かけのでかさは、虚業というか、つまりは乗っ取りによって生じていることなんて、ことさら経済に詳しくなくても想像がつく。そこがよく見えなくなったしまったのは、メディアが騒いだから。
お祭りって、そういうもの。祭りの人出の多さをまず見せる、そして御輿とその上に乗る何かだけを見せる。誰が支えているのか、何が支えているのか、どうしてなのか、そんなことは、ちっとも伝えない。あえて隠される場合もある。とにかく、見えない。見えなくていいのだ。誰も気にしない。「お祭り騒ぎ」を伝えているのであって、見る側もそれで満足している。楽しけりゃ善である。善悪の判断なんかしない。みんな、騒ぎたいだけなのだ。で、その御輿が転んだりして初めて、隠れていたものが見えてくる。やれ、担ぎ手の数が多すぎた、とか、担ぎ手が軟弱だった、とか、支える力以上の重さがあったからだ、とか、果ては、大勢の見物客で混乱した、とか、そもそも道が狭すぎた、などなど。そう、叩きに叩く。責任追及に大忙しとなる。
でもさ、そういうのって、当たり前じゃないのかな。誰も、祭りの頂点では、道が狭いなんて「警告」は口にしないし、聞きもしない。または、こんなことやってるといつか転ぶぞ、という怖いもの見たさ、つまり、野次馬的好奇心だけ。そうしたニーズに応えて「報道」してるにすぎない。そこに、何の倫理観もありゃしない。メディアの責任なんて言葉、ちゃんちゃらおかしい。ぼくは、そう思う。煽るのも叩くのも、メディアの本能、本質。だから、そこを批判しても無意味。論理矛盾である。
マスコミにとっては、常に、若くして被害者となった奥さんは「近所でも評判」の「美人妻」だし、その近所の人も実はたった1人だけのコメントなのに半径100mの周囲の「過半数の意見」に「ミスリード」してしまうし、午前2時なんて時間帯に誰も歩かないような場所で事件に遭遇した17歳や18歳の未成年者を単純に無前提に「無垢」の「可哀想な」「被害者」扱いするし。メディアなんて、そんなもの。
ほんでもって、おそらく、多くの人は、それを知っている。もちろん、世の中には、新聞やテレビが報じるものはすべて正しいと信じて疑わない純真な人もいるけれど、みんな、もう気づいていると思う、メディアの伝えることは「話半分」だと。だから、メディアが伝えないものにこそ、物事の真実がある。

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