2007年12月22日 (土)

「空白」の28年

今年一番の衝撃は「江川クンと小林クンのTVCM出演」だ。実年齢、当方より若干下の、この二人の再会にインパクトがある理由は、省略。だいぶ昔のことで、若い人には「?」だろし、一言でも語るのに40歳を過ぎていないと難しかろう。実際には、ぼくらくらいから上の世代にとっての話になる。わかる人にはわかる。
10月半ばだったか、テレビで初めて接したときの驚きは、相当なもので、当初数回は、食い入るように見た。バージョンも更新されているようで、少しずつ、話の中身が異なる。次が見たい。他の会話が聞きたい。ぼくはエキサイトした。そう、あくまでも「当初」は。
ぼくは、しかし、評価しない。
継続されているところから察するに、大方は好意的なのかもしれないけれど、ぼくには辛い。二人への印象が悪化するだけ。スポンサー企業にも反発してしまう。なぜって、あんな断片的な、言葉の羅列だけで、「あの」事件を、さも懐かしがるように語ってもらいたくないのだ。
この28年間、二言三言では当然、語りきれない。実際、二人の会話は3時間ほどに及んだらしい。そのなかの、かなり恣意的に選んだ、ただのピース、ぶつ切りを見せつけられて納得できるものではない。いや、ぼくは、詫びろ、とか、ファンへの説明責任などを持ち出したいのではない。いくらなんでも時効である。いまさら、なにも求めない。
だが、口火を切ったのは、あんたたちだ。コマーシャルだろうが何だろうが、当事者が口を開いたのである。だったら、もっとちゃんと話してよ。それを、あんなふうに、もったいぶって、ひとの興味をそそっておきながら、細切れ。そのうえ企業広告っていうんだから、まったく、信じられん。卑怯モノっ!!
あれだけ世間を騒がせたんだよ、あなたたち。いや、もちろん、二人だけの問題ではない。いろいろな輩が関わっている。それらの人々の多くは、もはや鬼籍に入った。だからこその、いま語る、回顧談なんだろうけれど。だったら、しっかり知らせようよ。そのくらいの責任、あるんじゃないの?
繰り返すが、黙ったままでもよかったのだ。とくに、小林クンは引退して、あれ? 野球評論家なの? だったら、いまなおギョーカイ人か、ふむ、ま、にしても、いちお、江川クンのようにはメディア露出していないんだから、市井の人として、責務はもうない。だけど、こうして出てきた以上は、「酒を酌み交わしつつ、ずっと胸のうちに秘めていた思いを語りあっ」た内容を、ちゃんと披露してくれ。それがオトナというもんだろ。
つい毒づいてしまった。好きだったからね、小林クンのこと。江川クンも意外に憎めないキャラだし。実のところ、当時は日本にいなかったし、やや傍観者。イマイチ「大騒ぎ」の実感に乏しいのだ。正直な話、当該球団のグループの末端に関わる仕事もしていたし。そんなには批判的でなかった。「うまいことやるもんだ」とすら思った。でも、野球史上に残る「スポット」であることは疑いもない。「汚点」とまでは断言しないが。
2007年を象徴する「偽」の文字のとおり、今年は冒頭から頭を下げ続けた企業(および組織)トップ・幹部。かれらには、特段の期待はない。そういうものだと諦めている。だけど、小林も江川も、いまは「個人事業者」のはず。後者は某球団との距離感から、そうとは断定しにくいけど。個人は、どこまでも「自己責任」だからなあ~。

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2007年12月10日 (月)

年賀状を何年やすんでいますか?

みたび、都バスの話。新橋駅から六本木ヒルズまで乗った。日曜日の朝、道路も空いていて、スイスイと。公称18分を15分弱で。快挙。今回はルートが観光名所でもあり、家族連れや若い人のほうが多かった。てゆか、ぼくが最高齢だったかも……。
地下鉄でも行けるのだが、乗換えが面倒、しかも「これだけ歩かされて同じ駅??」というのが東京にはあるし、かなり深くまでもぐらないといけない駅もある。もちろん、メタボなわたし、エスカレータを使うけれど、これが最近気に障る。
以前にも書いたことだが、あの、まったく訳のわからん片側通行スタイル、あれがダメ、赦せないのである。エスカレータは、じっと立って乗るもの、駆け上がったりしてはいかんだろよ。想定外のことゆえ製造メーカーも困惑しているとか。消耗が激しくなるらしいし、安全性に影響が出るかも。そのうち、大きな事故が起こるに違いない。
朝の通勤ラッシュ時の大ターミナル駅は例外としても、ほとんどの場合、そうしたセッカチは少数派。おかげで乗り口あたりの混雑、目を覆うばかり。東京では右側を空けるので、左側には列が長く、長く、長く。なんで、一部のヤツのために大勢が迷惑を甘受しないといけないのかな。
そのくせ、上りをせっせと歩くコイツら、着いたとたん、ふつーの足取りで、ぼくに追い越される。別に急いでいたわけぢゃないんかいっ! こちとら、水平移動ならお得意。 はっきり言って邪魔になるんだよ! どけどけっ、てな具合。するとなにかい、上りのエスカレータは、あんたのエクササイズかジムの代わりか!!!
ま、そんなこんなで不愉快なことも少なくないので、このところ、バスを利用する機会を増やしている。すでに指摘したように、現在の都バスは、高度のユニバーサルデザインになっている。「老」の世界に近づきつつある当方、とってねラクチンなのだ。たとえ座れなくても、てすりのバーが完備されているしね。
1209_4 あぁ、ちなみに、前夜の忘年会でやや酔いすぎの身なのに日曜早朝早起き「ヒルズ」は、仕事。日本郵政(JP)の「年賀状を贈りましょう」キャンペーン、今週いっぱいやっているそうだが、その「始状式」という名のオープニング。「元祖ブログの女王」と紹介された眞鍋かをり嬢、艶やかな振袖姿で愛嬌を振りまく、その様子に、さすが芸能人だと、ちとカンドー。
だって、社長の西川善文氏なんぞ、あのマジメな表情のままで。「最後のバンカー」とか称されるが、その実績はともかく、いまは郵便局の大ボスなんだから、愛想は必要だよね。08年用年賀状は2億枚も増やし、その07年はかなり売れ残ったわけだし。そうした現状打開のための、せっかくの販促イベントなのに。果たして、昨日きょうの、ニュースや新聞には、その振袖姿しか載ってない、それも小さい扱い。一般人相手の商売だと自覚しようね。

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2007年11月18日 (日)

都心のバス

翁の「ご隠居」発言に触発されて。
先日、取材で、久しぶりに浅草界隈へ。電車で行けたのだが、時間に余裕があったので、程よいところでJRからバスに乗り替えた。単なる気紛れ。忙しいときは電車を利用する。昨今は「オンタイム」でもないことが珍しくないが、それでも、バスは、ちょっとリスキーだからね。
都バスって、数年前から感じているが、だいぶ進化しているね。乗り降りは、可能な限り、グラントレベル、つまり段差が小さい。優先席も全体の半分近くある。手すりというのか、バーの数も増えた。降りることを知らせるブザー、これも、昔に比べたら、たくさん備え付けられている。満員時に手の届く範囲にブザーが無くて慌てた記憶があるけれど、もうそんな心配は要らない。降車ドアも、すぐには閉まらない。完全に停車してから立て、と、繰り返しアナウンスする以上、降りる客がまだいないか、きちんと見守るようになっている。
乗客のメインが高齢者になっているんだね。そのための配慮だ。実際、乗ったバスも老人ばかり。一般席にも、ぼくより明らかに年上の客が座っている。事実上、全席がシルバーシート。当方も、さほど若くはないし、できれば座りたいとは思うが、でも、つい遠慮してしまう雰囲気。いや、文句を言いたいのではなく。若い人がほとんど乗っていないから、当然、乗客の「平均年齢」が高いわけで、ぼくなんか「若造」になってしまう。
たまに見かける若い人は、子連れ。幼子を抱える女性。とあるバスストップで、ベビーカーの母親あり。さすがに、乗車口は狭く、広めの降車ドアから乗ってきた。臨機応変な対応は、運転手の指示。ほぉ~と感心。そんな態度は、ぼくが都心に住んでいたころ、だから、四半世紀前か、そのころは、ついぞ見られなかった。
変わったなあ。都バスにかぎっては、いまや、まさに「下駄代わり」の存在。電車は高架だし、地下鉄は潜りすぎで、もちろんエスカレータやエレベータが完備しているとはいえ、当方がときおり利用の「広尾」など一部に未だ長~い階段の駅もあり、バスの利便性は高い。200円均一だし。スイカも使えるようになったし。
路線や運行情報も、インターネットで把握できるようになった。ま、現実には網の目のように走っているから、なかなか全体像は掴みにくいけれど。でも、ホント、便利だなという実感は、以前に比べ強い。そう、つまり、ぼくも「シルバー世代」に差し掛かっているわけで。こりゃ、トシをとったら都内に住むほうが、ラクかも。

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2007年10月26日 (金)

まっちぽんぷ

「亀」の問題を書く気はないが、だって、これ、野次馬としての好奇心では見られるけれど、それ以上の話ではないと思うのよね。ただのパフォーマンス。それがチョット失敗しちゃったね、というレベルでしょ? ま、ボクシングファン、スポーツ好きの人には看過できないことかもしれないけれど。で、そのどちらでもないぼくとしては、しかし、「マスコミって煽るだけ煽って、一転、よってたかって叩く」ということで批判的に語る向きがあるんだけど、うぅむ、ナンダカナア……と思ってしまう。
結論を先に言えば、所詮、メディアって、そんなもんだろってこと。大手日刊紙やテレビ局などは「第4の権力」なんて言われるけれど、たしかに「力」はある、でも、「権力」としての「品格」など持ち合わせていない、本質的に。ま、政治家という「権力」にも「品格」はないよね、っていう話になると、生々しすぎて……。さておき、もともと「瓦版」、見てきたような嘘を書く、は言いすぎではあるが、たとえ本当のことだとしても、面白おかしく伝えるのが「業」ではないかな。天下国家の大切な論議を、単に楽しさ重視だけで報道されては、そりゃ困っちゃうけど。でも「楽しくなければテレビじゃない」とかなんとかアピールしたテレビ局、たしかあったよね。
最近でも、というほど覚えているかどうか、「ホリエモン」が話題の中心になったときも、みなさん、煽りに煽ったけど、それは、メディアの本能に従っただけだと思う。だって、少しでも真面目に考えたら、あの会社に「実業」と呼べるようなものはほとんどないことがわかる。あそこの見かけのでかさは、虚業というか、つまりは乗っ取りによって生じていることなんて、ことさら経済に詳しくなくても想像がつく。そこがよく見えなくなったしまったのは、メディアが騒いだから。
お祭りって、そういうもの。祭りの人出の多さをまず見せる、そして御輿とその上に乗る何かだけを見せる。誰が支えているのか、何が支えているのか、どうしてなのか、そんなことは、ちっとも伝えない。あえて隠される場合もある。とにかく、見えない。見えなくていいのだ。誰も気にしない。「お祭り騒ぎ」を伝えているのであって、見る側もそれで満足している。楽しけりゃ善である。善悪の判断なんかしない。みんな、騒ぎたいだけなのだ。で、その御輿が転んだりして初めて、隠れていたものが見えてくる。やれ、担ぎ手の数が多すぎた、とか、担ぎ手が軟弱だった、とか、支える力以上の重さがあったからだ、とか、果ては、大勢の見物客で混乱した、とか、そもそも道が狭すぎた、などなど。そう、叩きに叩く。責任追及に大忙しとなる。
でもさ、そういうのって、当たり前じゃないのかな。誰も、祭りの頂点では、道が狭いなんて「警告」は口にしないし、聞きもしない。または、こんなことやってるといつか転ぶぞ、という怖いもの見たさ、つまり、野次馬的好奇心だけ。そうしたニーズに応えて「報道」してるにすぎない。そこに、何の倫理観もありゃしない。メディアの責任なんて言葉、ちゃんちゃらおかしい。ぼくは、そう思う。煽るのも叩くのも、メディアの本能、本質。だから、そこを批判しても無意味。論理矛盾である。
マスコミにとっては、常に、若くして被害者となった奥さんは「近所でも評判」の「美人妻」だし、その近所の人も実はたった1人だけのコメントなのに半径100mの周囲の「過半数の意見」に「ミスリード」してしまうし、午前2時なんて時間帯に誰も歩かないような場所で事件に遭遇した17歳や18歳の未成年者を単純に無前提に「無垢」の「可哀想な」「被害者」扱いするし。メディアなんて、そんなもの。
ほんでもって、おそらく、多くの人は、それを知っている。もちろん、世の中には、新聞やテレビが報じるものはすべて正しいと信じて疑わない純真な人もいるけれど、みんな、もう気づいていると思う、メディアの伝えることは「話半分」だと。だから、メディアが伝えないものにこそ、物事の真実がある。

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2007年10月24日 (水)

さばく

我らが愛すべき「相棒」のシーズン6が始まった。初回は2時間スペシャル。見応え十分だった。ホッ。いやね、冒頭30分くらいかな、話がシンプルそうな気配で、チト心配したわけです。この程度の謎なら1時間モノだろ~、これで2時間引っ張るのはツライぞっと。果たして、中盤から小さなどんでん返しが連続して。結果、ミステリーとしては、さほどの大仕掛けではなかったけれど、「裁判員制度」を、けっこう直球で扱っていて、なかなかに重いネタでもあった。
このドラマについては、このあと半年ほど、ときおり触れるだろうから、今夜のところはおいといて。そうなんだよね、裁判員制度。これ、キツイよなあ~。ぼくは、かねて、人が人を裁くってナンなのさ、と、司法そのものに懐疑的。と言うと大袈裟か。ま、以前、「半落ち」を読んでカンドーした当方、その映画化で、吉岡秀隆の演技の上手さもあってか、その役の裁判官の「苦悩」に、かなり感情移入してしまってね。法廷モノは、ほかにもたくさんあるが、とにかく、裁判という手法、いや人類の知恵か? なんにしても、考えさせられることが多い。
まともに論じるには力不足だから、やらないけれど、捜査の段階を含め、人間の行為というものを、極めて反情緒的な言葉で説明できるのだろうか、と、これは明らかに疑問視している。だって、たとえば、人は通常、後々、誰かに説明することを想定して行動しているわけではないと思うのだ。もちろん性格にもよるだろうが、ぼくは、駅までのたった5分の距離を、その日の気分で、歩く。だから、ルートは一定していない。表通りを選ぶときもあれば、裏通りを歩くことも。あまり適切な例ではないかも……。でも、たまたま初めてのルートを選んだ日に、道すがら、何か事件に遭遇して、目撃者になってしまうとする。「何故その日に限って」と訊かれるよね。しかし、理由はない。で、第一発見者として疑われる……。妄想? だといいのだけど。
裁判員は、しかし、確実に、その役を担う日がやってくるわけで。そのとき、当該事件に対して、虚心坦懐に向かえるか、自信ないなあ。それ以前に間違いなくワイドショーかなにかで情報に接しているはずで、何らかの予断をもって臨むことになると思うのよね。自分で言うのも変だけど、ぼくって、わりに、先入観の少ないやつだけど、それでもね……、大事件であるほど、勝手に予備知識を仕入れている可能性は高くなるし。一方で、調書の日本語や被告の言葉遣いに突っ込みたくなるだろうし。
そのうえ、量刑。アタマが痛い。死刑制度には反対だが、残酷な事件には平気で「死刑にしてしまえ~!!」と怒鳴るし。そもそも何故、終身刑がないのか不満だし。アメリカみたいに懲役150年とか、そういうのもあるべきだと思うし。
かつては魚の三枚おろしもできたし鶏を丸ごとさばけたが、人を裁くのだけは未経験。やったみたくもあり。でも、コワイよね。

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2006年12月 1日 (金)

後悔

映画が110年前に日本(神戸市)で初めて一般公開されたのを記念し50年前に制定された「映画の日」だそうだ、しまったなあ~、昨日のネタは早まった。まあ、その記事を削除して本日付で再アップ、という裏技、禁じ手、ないわけでなく、でも、現実には、1日あたり10人でも読み手がいれば、実行するにあたわず。後悔先に立たず。いや、でも……。取り返しのつかないことなんて、実は、そうそうにはないんだと思う。

たいていは、その失敗で学んで、こんどはきちんと考えてやろうとか、ミスしないよう気をつけて、と反省したりして、実際、うまくいって、悔やむことなく。つまり、後悔は、たしかにすでに起きてしまったことに対しては立たないとしても、次には立つ。屁理屈ですけど。覆水盆に返らず、そのとおり、でも、こぼした水はまた汲めばいいし。その跡は拭けば消える。屁理屈ですけど。だけど……。

どんなに丹精込めて育てても、一発の台風で、田園は易々と荒れ、如何なる瑕疵がなくても大自然の気まぐれの前にはただ呆然とするしかないこともある、我が祖国は、そもそも、一度や二度の失敗に厳しくない。仏の顔も三度。「再チャレンジ」は国柄でもあるのだ。それを無くしてしまったのは誰だろう。不確かな自然現象を前にすれば、知恵や工夫はもちろんあるとしても、稲作など、毎年が常に、新しい未来へのチャレンジそのものなのではないのか。そうした農作物の生産に関わらない、武士とかいう階級は、くだらん伝統と面子のみを重んじ、ちょっとした過ちで腹を切る。この人たちにとっては、後悔は先に立つまいて。

ぼくらが普段、何気なく口にする「昔の日本は良かった」の「昔」って、もしかして、この、武士が支配していた時代の、その延長線上での日本の倫理観ではないのか。それは、この国に相応しいか。だいたい、明治以降の日本なんてたかが100年あまり、つい最近のことにすぎない。武士階級なんぞも、最大で人口比5%程度の圧倒的マイナーな階層に過ぎない。ただ、面白いのは、江戸では「平民」のほうが少数派であったし、「男らしさ」を強調する薩摩、つまり近代日本の支配構造の一端を担う、この藩では3割が武士だったとか。ぼくらは、しかし、「もののふ」の末裔ではないのだ。
★後悔(2000)

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2006年11月29日 (水)

ルージュ

電車やバスの中で口紅をひき揺れる車内で器用にアイラインを使いこなす女性が、珍しくなくなった。公衆の面前でのメイクは、恥ずべきものだったはずだ。ぼくはもちろん男だから、そうした教育を受けたわけではないけれど、相方いわく、かなり昔からの常識だと。だよね。そうでなければ、エラリー・クイーンのあの名作は、基本トリックが成立しなくなってしまう。

最近の若いヤツときたら……。でもなあ~、たとえば「立ち食い文化」は、ぼくらの世代から始まったんだ。いくらなんでも通勤電車で弁当は食べないけれど。でも、パンくらいなら、もう躊躇いはない。ドリンク類は夏なんか日常的な光景として定着している。そういえば、新幹線車内でビールを飲み真っ昼間からミニ宴会していたのはガキではなかった。そもそも、ウォークマンに代表される、車内での音楽鑑賞の習慣を広めたのも、いまのオトナたち。

「下着であるキャミソール」姿の若い娘たちへの批判をよく耳にする。でもなあ~、「下着であるTシャツ」姿をまともなファッションへと変えたのは、ぼくたちだ。帝国ホテルがかつて立ち入り禁止にしていた「作業着」ジーンズ姿も、市民権を得た。当時は非常識だったそうした「ヤングだけの新しい文化」は、伝統的な日本古来の文化と衝突した。そして、日本の常識として成立させた。近ごろの若い人間の立ち振る舞いに眉をひそめるぼくらは、その昔、若者だった。

だから批判できない、と言いたいのではない。ぼくらは闘った。旧い因習と。偏見に満ちた世間と。そして、勝った。だけど、いま、世代間ギャップは依然存在するけれど、世代間コンフリクトは、どこに? 「家族帝国主義」による「圧制」を知る我らは、下の世代を「解放」し理解を示した。その結果は? 自由というものは、やはり、闘い勝ち取らなければならないのだろうか。
★ルージュ(1977 ちあきなおみへの提供曲)

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2006年11月25日 (土)

時代

憂国忌である。何それ? かなあ……。1970年11月25日、ひとりの作家が死んだ。いまは様変わりしてしまった、陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地で、腹を切った。比喩ではなく。ぼくは、このニュースを雀荘で耳にした。卓を囲んでいた友人は神保町の古本屋街へ走った。初版本が高騰すると叫びながら(誇張です)。文学という言葉が生きていた時代、ハードカバーの初刷りには価値があった。ファンだった彼は、たしか『豊饒の海』第四部『天人五衰』、いや第三部だったかな、まだ買っていなかったので慌てたのである。

ぼく? 文学青年していたので、もちろん気になる対象、だいたいは読んでいたけれど、そのころは、太宰治を卒業し、無頼派といわれるなかでは織田作之助のファンで、SFに傾倒していたから、そんな友を微笑ましく見送った。と思う、たぶん。いや、呆れた顔をしていたかも。なんにしても、ビッグニュースだった。蛇足ながら、つきあいはすでになかったけれど級友・浅田次郎も衝撃を受け、そして自衛隊に入った、と後に知る。

いつか、自ら死を選ぶだろうとの予感はあったはず。予測する専門家もいたらしい。でも、よもや、あんな形でとは。三島由紀夫は、バルコニーの上で、野次と怒号とで見守る群衆に檄を飛ばした。しかし、届かなかった。そして、壮絶な最期を遂げた。喜劇ともいわれた。いろいろな憶測が飛び交った。いつしか、その政治的な主張は忘れ去られた。が、36年後の今日、その骨子は生き続け、部分的に具現化しようとしている。三島は草葉の陰で何を想う。

東京帝大文学部の三島は生きていれば81歳、大阪帝大工学部の我が父と同い年である。片や、兵役に就くことなく真っ当に卒業し、いったんは大蔵官僚となり、45歳の若さで自衛隊の決起を促した末に自死の道を選び、愛国少年の父は理工系ゆえ免除されていた兵役に自ら志願し、満州・シベリアと流れ、60年余のいまなお一言も語らぬ体験を経て、現役である。
★時代(1975「第10回ポピュラーソング・コンテスト」「第6回世界歌謡祭」グランプリ曲)

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2006年11月23日 (木)

ファイト!

勤労感謝の日。働くことを、何に、誰に、感謝するんだろう。もともとは五穀豊穣を祝う新嘗祭、だから、これは自然に対して。まあ、神に対して、でもいいけどね。気になって調べた。すると、公式には「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」だとか。尊ぶね……、お互いに、かあ……、ふむ、わかるような、わからないような。

新嘗祭の時代、我が祖国では農業がメインの産業だったし、農作物の収穫にあたっては、まさに天の恵みに対する感謝は当然の感情だ。食糧自給率の数字なんか知りたくない現代でも、不作ではもちろん困るし(米が足りなくなって海外から緊急輸入した日々はもはや過去のことだとしても)、あまりの豊作でもよろしくない(白菜やらキャベツを廃棄するシーンを見ていると心が痛む)。

「サラリーマンは気楽な稼業」とのシニカルなフレーズが流行り、やがて定着していった高度成長期、働くということは、会社へ行く、と同義語になり、いまや7000万労働人口のうち5000万人が被雇用者、そのほとんどが「職業は会社員/OL」と答える。そして、そのうち3割、1500万人がパートや派遣などの「非・正社員」と呼ばれるようになった。「正しくない社員」の響き、モノ悲しいね。

なかでもパートは1200万人に達する。この人たちの、賞与を含む時間単位給与は正社員の約60%とか。同等にとは言わないけれど、この「差」が「好景気」の原動力なんじゃない? そして「派遣」の「台頭」。仕事がある、ということは、たしかにありがたいよね、とくに、こんな時代。でも、こんな勤労形態を尊重することができるだろうか。それでも、ぼくたちは生きるために働かなければならない。すべての労働者諸君、ガンバっ。
★ファイト!(1983)

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2006年11月22日 (水)

二隻の舟

11月22日は「いい夫婦の日」。と書き出して、有名無実化しているのではないかと心配し、ネット検索したら、よかった、88年にスタート、こんなもの、バブル時だから成立する話で、85年に政府が制定した「ゆとりの創造月間」のついでみたいなもの、夫婦に金を使わせようという狙いで、と思っているが、そんな都合よくいくものか、「E電」(懐かしいでしょ?)と同じ運命だろう、と。あにはからんや、ちゃんと継続している。20年近い、スゴイね。

いえ、いちゃもんをつけるのでね、死語になっていたら困るから。でも、少し気勢が削がれた。継続は力、なにはともあれ。どのような意味があるのか、評価できないけれど、「パートナー・オブ・ザ・イヤー」なんてものを表彰していたり、やることはやってるようだ。が、今年は、船越英一郎・松居一代夫妻が選ばれた? ふうむ。間違ってもモデルケースにはなりそうもないね。というか、手本にしてはいけない気がする。個人的に知っているわけではもちろんないが、あの二人は独特でしょう。

アンケートも実施していて、夫婦二人で過ごす時間があるか、とか、その過ごし方は? とか。って、どうでもいい質問だよなあ。食事やお茶をしながらの「会話」する夫婦が最も多いそうだ。その中身は、「子ども」「仕事」「お金」か……。「人生」とか「社会的な出来事」はないのか。でも、これはこれで価値あるかもね。ん? 回答数91……。有効性ないよなあ。

そもそも、夫婦なんてものの形は千差万別。「いいも」も悪いもない。大きなお世話だ。スポンサーになっている企業には、それぞれに思惑があるのだろうけれど。おっと、後援に財団法人社会経済生産性本部か、あんまり文句言えないなあ。我が心の師、seigu翁との知己を得たのも、この組織の調査研究のおかげですから。
★二隻の舟(夜会テーマ曲)

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