2012年6月17日 (日)

温故知新

いま模索中の「新しいこと」を始めるには士気もハードルも高く。でも、新しい原稿ならば若干低く、と、更新。仕事の上で鯨飲馬食のごとく書いたあとだが、ブログはエッセイみたいなもんで、まあ、ラク(エッセイストには失礼な発言かも)。

先日、何の拍子か、「たしかクイーンのCDを持っていたよなあ~」とセルフ・ガサ入れ。CDは勘違いでミュージックテープだったのだが、たくろうやらあのねのねやらに混じって、覚えのないカセットテープを発見。

内容がよくわからないので、すぐには再生せず、当初の目的の「rock you」なんぞ聴きながら、春の宵を過ごし、さて寝るかというときになって思い出し、布団の傍のデッキ(ラジカセ)に挿し込む。

まいった。

1979年5月に録音の、ぼくのアメリカ時代、日本にいる友人への、声の便り、というやつだった。その友は、つい最近も本欄で触れた「故人」という形容詞のつく旧友で、後に再渡米してきたし、日本でも何回か会ったから、紆余曲折あって発送主(記録主)である小生のもとに戻ってきたのだろう。そう推理しているが、定かではない。なにしろ、そんなテープを録音した事実を、すっかり忘れていたのである。

33年。うん、大切なことすら忘却するに十分な年月だろう。旧友W宛てのものだから、もちろん当人は登場しないが、たまたまWの弟Mくんがロサンゼルスにやってきたタイミング、Mの肉声が聴けた。これが、珍しいことではないかもしれないが、Wそっくり。

Mくんとは初対面で、実は、第一印象が、兄貴そのものだった。顔の類似性はそれほどではないが、態度というか雰囲気というか、仕草、立ち振る舞い、そういうところが、驚くほど。声も似ていて当然だが、その記憶はなかった。

ほとんど即興で、ぼくは、Mのことを歌にした。「♪まるで兄さんそのもの・・・やっぱり血は争えぬ」なんてね。この曲、当方の「創作ノート」に歌詞とギターコード進行が残っていたが、明確には覚えていなかった。このMとは、その後30年余、再会の機会がなかったわけで(その再会が葬儀の席なんだから、ヤンなっちゃうよね……)、正直な話、まあ、青春の一頁あたりのレベルだったのだろう。

いわば「原曲」に、四半世紀を超えて邂逅し、勝手ながら、「けっこうエエ曲やん」と。安ギターを奏で、かつ歌っているのは、その道に進むことのなかった小生だし、1番と2番とで微妙に音程が狂っていたり、詞自体も練り込まれていないけどね。

このテープには、ほかに数曲。ひとつは、その1年2か月前に日本へ戻ったWへの、別れを惜しむもの。歌詞は、女性から男性への恋心テーマにしているが、なかなかの名曲だと、Wと共に「自画自賛」したことがある。昨年10月18日記でも触れた。
もうひとつは、Wが帰国したあとに作った、彼への「手紙」モチーフ。これも、ぼくは好きだ。この2曲は、Wが逝ってから、何度も独りで歌っている、追悼の意味だろう。それから、Wと一緒に作った、やはり「帰国」モチーフの曲。
繰り返すが、音源としては、我が人生の半分以上の時間が流れた末の、初めての再会である。
(参考・2010年2月25日からの「音楽との出合い」4回連載)

さらに、Wの自作。タイトルはなく、歌詞カードも何も残っていないので、存在はかろうじて記憶していたが、未完成ということもあり、いやはや、まさに「発見」だ。

さて、こうした「故きを温ねて」、その結果、どのような「新しきを知る」ことになるのかというと、ぼくは、これらの曲を世に出したいとの妄想にとりつかれてしまったのである。温故知新どころか、傍若無人、厚顔無恥、大胆不敵……、日頃は「身の丈」を声高に叫ぶのに、まったくの身の程知らずだよね。

カラオケで中島みゆきを歌うのも楽しいけれど、でも、自作を熱唱できたら……、けっこうステキだとは思いませんか?

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2010年2月28日 (日)

音楽との出合い④止め

人の歴史に「if」を言い始めたらキリがないことは重々承知している。たとえばもし、あの年齢規定がなければ4年前に金メダルに輝いていたかも、と考えるのは自然だろう。そんな仮想は詮無いことなんだけど。それでも、自らの人生だからね、ついつい妄想してしまう。

ぼくは、ピアノを習い始めた10歳のころ、ジャーナリストになりたいとか小説を書きたいとか、そんな野望を全然持ち合わせていなかった。もしも、中学受験なんてことをせず、あのまま続けていて、勘違いでもいいから、音楽で身を立てよう、なんてことを思いついていたら……。なにしろ、先生はその世界の第一人者だったしね。

中学・高校生のときに作った曲が、もしも、誰か専門家の耳に達していて、ほんのちょっとでも「原石」かもしれないと唆され、そっちの道に進んでみたら面白そうかもと錯覚していたら……。実際、高校の同級生の佐藤クンはケメとしてデビューしたしね。

帰国後に結婚したのち一度、ロサンゼルスに遊びに来たこともあるAさんとは、ぐるみでのつきあいが続いていたが、最近は疎遠に。彼女は、記念すべきぼくの曲を覚えているだろうか。もしも、配偶者が音楽業界の人だったら……。

いわゆるインディーズで(CDは未だなかったから)ミュージックテープを出したCくんは、残念ながらメジャーデビューとはならず、いまは無縁の仕事に就いているらしい。かれの手書きの詞は、ぼくの「ノート」のバインダーに綴じられている。もしも、かれが芽を出していたら……。

先日の5時間トークのなかでは確認しそこなったが、Dくんは、おそらく自分を送る歌の存在を忘れているのではないか。その曲が、作曲者としてのぼくの事実上のラストソングであることは、もちろん知る由もない。もしも……、うむ、ここは無理だな。

でも、Bくん、かれは、音楽の世界にコネクションがある。若いときのノリではあっても「これ、意外に売れるかもしれへんでぇ~」と言ってくれていた。もしも、その言葉を真に受け、ジャーナリストよりもミュージシャンだ、と「大英断」していたら……。まだ、20代だったんだもの、方向転換はアリだったかも。

なにはともあれ、しかし、この現実である。女性との出会いなら、いささかでも「運命だ」と思える感性に自信はあるのだが、音楽との出合いには結局、淡白だったのかな。

ところが。ここでも書いてきたように、ここ1、2年、なんだか妙に音楽づいている。そもそも、妹は明らかに音楽関係者だし、親しい知人がCDのプロデュースに進んでいるし。

そして、Bくんは一昨年、生活拠点をニューヨークから東京に移した。何度か会ったりメールしたりしているのだが、大変うれしいことに、「あの曲、なんとかしようよ」と。かれは、採譜ができる。つまり、コード進行と詞のみの原型に過ぎないものを、作品にすることが可能なのである。

わが師、seigu翁にも、老齢期を前に埋蔵資源を掘り起こしてみたら、と貴重なアドバイスをいただいた。

ふうむ。出会いはあり、「友達」にもなったが、たぶん「友達以上」なんだろう、でも、「恋人未満」ということなのか。「アラ還」にして、惑う。

半端なままだが、ひとまず終わる。

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2010年2月27日 (土)

音楽との出合い③

男女3人の6人全員入賞こそ快挙で団体戦があったら間違いなく金(メダルのことね、キムヨナではない)だと相方はコーフンするが、ぼくはフィギュアに興味がなく、淡々と話を続けよう。

1977年の、たぶんクリスマス・イブの夜。ぼくのアパートで仲間たちと盛り上がっていた。ちょっとだけ脱線するが、貧乏留学生ではあったけど、ロサンゼルスでは広い部屋を格安で借りられる。前にも書いたかな、室内でフリスビーができた。幹線道路沿いでもあり、けっこう騒いでも苦情はこない。

そんな、パーティの最中、友達の友達が日本からやって来た。これがBくん。正直、第一印象はよくなかったんだが、以来、33年か、つきあいを続けているのだから、人生って面白い。(えっとぉ、何人かの定期読者氏、最近紹介したKくんのことですよ)

さておき。かれは、ある有名なフォーク・シンガーの付き人みたいなことをしていた経験があり、実は「ゴースト」みたいなこと、つまり本当はかれの作った曲なんだが、世にはそのシンガーの名前で、というやつね、そう、ギター弾きだったのである。その夜、かれは腕前を披露したはずで、ぼくも、隠れた名曲を聴かせたに違いない。

おまけに関西人だった。関係ないか、いや、否めないと思うなあ~。たちまち意気投合し、その後の3か月間、一緒に曲作りした。正確には、ぼくが作ったものを聴かせながら感想を求め、かれのアドバイスにより整えていった、という感じかな。

かの「創作ノート」にしたがえば、15曲目の『悲しみのジェットプレーン』には、ついに作詞としてかれの名前が記されている。共作と呼ぶほどの共同作業ではないかもしれない。けれど、かれの存在にインスパイアされて、ぼくの作曲衝動が噴き出したことは間違いない。

そして、16曲目が『3月22日水曜日』。かれが帰国した夜に作った。タイトルそのまんまのその日の朝、観光ビザだったかれは90日間の滞在を終え、日本へと戻っていった。もちろん詞はデフォルメされているけど、短期間だが濃密な時間を共有した友への、惜別の歌である。

これは、ぼくの全作品(ざっと30曲かな、メロディを覚えていないものも含めれば40曲強)のなかでもトップクラスの出来だと自負する。ちなみに、作詞は、そのころは友達でしかなかった女性、2年後にはカミさんになる。この3人でよく遊んでいた。

怪我の治療(リハビリ)がロサンゼルスにやってきた理由だったBくんは、かの地の温暖な気候に魅了され、1年2か月後、金を貯めて、再渡米する。それまでの間に、ぼくは、英語の勉強を一区切りさせ、アルバイトを経て、新聞記者として就職するのだが、さらに多くの曲を作っていた。

もはや時間的流れは曖昧だが、その年('79)、またまた友達の友達に出会う。便宜的にCくんとしよう、プロの歌い手志望だった。ボイス・トレーニングといっていいのかな、とにかく歌の勉強で渡米、Bくんも含め、よくセッションした。

このブログ「旧友再会」で登場の関西人、Dくんとする、かれとも職場で知り合っていて、当時のカノジョが歌のうまい女の子だったから、音楽の輪は、なおいっそう広がっていく。

とはいえ、すでに、ぼくは、憧れの新聞記者として、活字の世界で生きることを決めていた。

音楽との出合いは、それなりに違った未来を描き出す可能性を秘めたものではあったかもしれないけれど、ここまでの結果としては、趣味の域を出なかった。

でも、これからは? ふむ、どうなんだろう……。(次回で完結の予定、たぶん)

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2010年2月26日 (金)

音楽との出合い②

カナダにおける日韓対決なんぞに見向きもせず、昨日の続き。

わざわざ音楽的環境に触れたのには理由(わけ)がある。

ぼくは、小学校4年間、学校で音楽を習わなかった。教科として無かったのである。私立だったので勝手なカリキュラムを組めたのだろう。昭和30年代のことだから、いまでは無理かもしれない。

で、5年生から公立へ(その私立を「放校」に遭った話は以前書いた)。生まれて初めて、音楽という授業に出合った。子どものレベルだが楽譜が読めず、つまり唱歌が歌えず、ドレミのドすら知らず。何にもわからない状態だった。

両親が焦った。自慢の一人息子の主要4教科に問題はまったくない(結果、2年の間、学年ベスト3に常駐した)。図工や体育は受験には不要と無視。なのに、どういうわけか、音楽にだけは、こだわったようだ。

ピアノを習うことになった。これまた触れたことがあるけど先生はその世界で著名な女性。そんなに期待されても困るのだが、厳しかった。10歳になってからのチャレンジである、出来は悪かったに違いない。「バイエル」に悪戦苦闘の日々だった。楽しい思い出とは断言しにくいが、でも、好きだった。何とかついていった。

レッスンを休みたいと思った記憶はない。当たり前? いや、だって……、他の生徒は、未就学児でも当方より高等のレベルに達していたし、同じくらいの年齢なら信じられない指の動きだったし、だいいち女の子のほうが圧倒的に多かった。いまのぼくではないのだ、まだローティーン、思春期の入り口、恥ずかしいという気持ちはあった。

中学受験という状況にならなかったら、もっと続けていただろう。「ソナチネ」の直前でやめたけれど、そこそこ手は動いたし、オルガンを購入していたから、練習という名の努力は惜しんでも、楽しみとしてなら遊びもした。

ほとんど自問自答だが、要するに、ギターの登場前、そして登場後も、鍵盤には馴染みがあった、と思うのである。

でも、ピアノで曲を作ったことは一度もない。ぼくの「作曲人生」は在米時代の数年間に限られるからでもある。

アメリカへ渡ってから1年もしないで、ぼくはギターを買った。最も手軽な楽器だったわけで、おそらく、そのころの財布の状態からして、10ドル+αかな。ほんの少しだけ割引してもらったことと購入店は、はっきりと覚えている。「まけてくれ」を、ただひたすら「ディスカウント!」と繰り返したことも。

周囲には貧乏留学生ばかりで、ギターは格好の娯楽だった。財政的に外食は難しく、ちょっとリッチな友達のクルマで遊びに行くのも、せいぜいがビーチで無邪気に水と戯れる程度。金を使っての楽しみは、なかなかね。で、誰かのアパートへ押しかけ週末をビールとつまみ少々で過ごす、といった具合。そんなとき、ぼくの安ギターは最強だった。

そんなおり、仲間の一人が日本に帰ることになった。前述のAさん、とくに親しくしていた女性ではないのだけれど、『去りゆく貴女に』という曲を作った。77年6月。仲間内とはいえ、けっこう好評で、その後、機会あるごとに何回も披露しては喝采を浴び、内心でニヤけていた。もちろん、いまでいうカラオケに興じるような、遊びの域を一歩も出ていない。

そして、この年の暮れ、前述のBくんに出会い、ぼくの怒涛の曲作りが始まるのだが、号外が出る世の中の動きなんか、どこ吹く風、あぁ春一番だったらしいけど、そんなこととは無縁に、この話、まだまだ続く。

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2010年2月25日 (木)

音楽との出合い①

なにやら大層なタイトルだが、前項のコメントを書きながら、振り返ってみた。

この世代の多くと同様だと思うが、GS(グループサウンズ)やフォークソング(当時はまだ洋楽)の流行に影響され、中学2年のときだったか、ギターを買った。小遣いを貯めての予算2000円だったと思うので「マーチン」「グレコ」なんてまさに高嶺の花、安い無銘のクラシックギターしか選べなかった。

で、これも常道、「禁じられた遊び」とか、PPM(ピーター・ポール&マリー)、ブラザーズ・フォア、キングストン・トリオなどにトライ、「パフ」「七つの水仙」「花はどこへ行ったの」「500マイル」「風に吹かれて」といった歌をブンチャカブンチャカ勝手に弾き鳴らし(喚い)ていた。

アルペジオ奏法を会得できず、歌唱力についても才能のなさを痛感。ただの趣味の域を出なかったのだけど、中3で初めて曲を作った。そのころの流行り、加山雄三のマネだった。出だしだけはボンヤリ覚えているが、記憶にしか残っていない。

前述した「創作ノート」(という名称ではないが便宜上そう呼ぶ)のトップページは、高校2年生('68)のときに作った『一人旅』。コード進行が記されていて、いまなお歌える。「彼の荷物は小さなトランク一個と一本のカサ・・・」という、ま、失恋ソング。このころは、失恋なんて日常だから、どんな背景があったのか、特定できない。男子校だったから、友達の友達の女の子を紹介されたけど「グループ交際で」とか言われ、つまりやんわりと断られた、程度だろう。

さて、時代は、あの60年代後半、政治の季節だったから、反戦歌を叫びながら、新宿西口広場に行ったり、べ平連のデモに参加したり。軟弱な(^-^;歌作りは打ち止めにした(みたい)。

記録上の2曲目は、それから約10年後のこと、すでに渡米していた。向こうでも安いギターを購入し、何の気紛れか……。

そこへいくまえに、ふと自問。たしか自宅にはオルガン(のちにピアノ)があったはず。これは、利用しなかったのだろうか。

何故そんなことを考えるかというと、ぼくは小学生の5年から6年までの2年間、ピアノを習っていたからだ。そして、これは以前にも書いたが、中学に入ってから観た『サウンド・オブ・ミュージック』に激しく心を動かされもした。

ついでながら、妹もピアノを習い始め、こちらは永続し、音大を経て、いまや先生であり、音楽スクール経営という立場にもなった。さらにば、わがオフクロは生前、カラオケをこよなく愛した(伝聞)。しつこく言えば、娘は大学で音楽を専攻、母親譲りの絶対音感の持ち主でもある。戦争世代のわが父は「戦友」以外はまともに歌えないけど、でも、ステレオは結構早くに買っていて、よく李香蘭や森繁を聴いていたようだ。

自らのギターとの出合いから話を始めたけれど、思えば、音楽的環境は、そこそこあった、ということなんですね。(いつものごとく長くなってきたので、次回へ)

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2010年1月28日 (木)

猥雑な楽しさ

Photo

1年前の「ライブ・ウイーク」以来、宿題をひとつ残したままである。そのイベント、久しぶりに堪能という言葉が相応しいほどエキサイティングだったのだけど、どう楽しんだのか、どうにもうまく表現できず、「次」の機会が来てしまった。

その『築地Jazz寄席』を継ぐ『横濱Jazz寄席2010』には、知る人ぞ知る、一部には「おぉ、この人が~」という名のあるアーチストも含め、さまざまな芸達者が集まった。1月22日から24日までの4公演、そのラストを観た。

さて、また、悩んでいる。体験したこの楽しさを、どう伝えようか……。

つまりは、コンセンサスの未だない試みなのである。きちんと定義できない催しなので、実は、主催者側からの発信も、多くの言葉が並ぶのだが、イマイチわかりづらい。それゆえか、残念ながら、ベストポジションの席でも空いていた。

仲間の誼であえて辛口に言えば、「コレとコレとをコラボしたら何かが生まれる」というアイデアは買うけれど、それが練られておらず、こちらに届いていないのだろう。実際に観に行けば「あぁ、なるほど」と思うが、それでは、客席を埋められない。

儲からなくてもいいさ、みんなボランティア精神で、趣味でやっているんだから……それなら、かまわない。でも、赤字なんて怖くないぞの「ハコモノ行政」ではあるまいし、入場料を取り、出演者にギャラを支払い、ビジネスとして進めるのであれば、まずいよね。

ぼくだけの感想では「いろいろな屋台が混然と交わりあっている猥雑な縁日のワクワクドキドキ」がポイントだと思う。

その面白さに触れた本人すら、その面白さを語りきれない、そんなユニークなイベント、次もあるなら、「満員御礼」の札を見たいものだ。ガンバってね~。

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2010年1月19日 (火)

ジャズ寄席の 音色怪しき 来てみれば 妖しき風情 しばし堪能

今週末、横浜で『横濱Jazz寄席2010』なるものが催されます。
ジャズ寄席? なに、それ……でしょうね、ふつう。当方もそうでした。主催者が知り合いでなければ怪しんだままだったかも。
行ってみて、びっくり。ジャズと寄席との、これが本当のコラボレーション。見事なまでの「競演」というか「共演」いや「協演」か。
表現者の端くれなのに、うまく説明できません。とにかく、一度、リアルに体験を。

昨年のダイジェストは、ここ。
http://www.youtube.com/watch?v=-k824me6oeY

詳しくは、こちらへ。
http://jazzyose.com

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2009年12月 2日 (水)

本日発売

このブロクで何度も宣伝している「Lagniappe(ラニヤップ)」のデビューアルバム「ここ」が、きょう12月2日に発売です。
そんなわけで、先日のライブの画像をアップします。
当方も何枚か撮ったのですが、さすがに取材ではないので遠慮がち、公開できるもの少なく。専門家(写真家・坂井和氏)が撮影した写真を借りて。

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これは、ナビゲータ役のmitatake(みたたけ)。ヴォーカルの佐野岳彦はハーモニカも担当、なかなか聴かせてくれた。ギターは見田諭、かなりウマイ。

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傘をさしているのは、もちろん「雨が空から降れば」だから。

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親子ユニット、別名「親バカ」もしくは「介護」ユニットのふたり。

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ピアノの谷川賢作を含めての5人全員のショット。

小売価格は2,500円(税込)。
アルバムについて詳しくは、こちら。http://coco-luck.net/index.html

東京では、山野楽器銀座本店、タワーレコード池袋店、HMV池袋メトロポリタンプラザなどで購入できます。全国どこでも、というわけにはいかないけれど、でも、オンラインで可能ですから、よろしくね~。

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2009年11月21日 (土)

出発(たびだち)の歌

1週間で2度も「出発(たびだち)の歌」を、生で聴く機会を得た。

最初は、しつこく宣伝してきた17日火曜日の「Lagniappe(ラニヤップ)」のライブで、もちろん小室等ご本人によるもの。アンコールで披露されたのだが、これは、まあ、お約束というのか、当然予想されたこと。
しかし、きょう、日付けが変わったので正しくは20日金曜日の夜、とある人たちによる、とある場所での、とある催し物で、これまたフィナーレの曲として、まさか接するとは……。

さて、前者のライブ、後日に報告と書いたけれど、堪能の度合いが極めて深く、数日の時間を経て、なお、落ち着いてリポートできない。つまり、まったくもって、ひとりのファンとして楽しんだわけで、これを、なにやら記述しなければいけないなんて、ううむ、度し難い苦難。

簡単に当夜の模様を述べるならば、やや順番は異なるものの、アルバムに収められている13曲を、見事に演奏、歌い上げた。こむろゆいも、ハスキーな歌声で魅せてくれた、が、なによりも、小室等のアコースティック・ギターに酔いしれた。こんなこと書いたら怒られるかもしれないけれど、「小室ファミリー」というよりは、「小室ワールド」だった、ぼくにはね。

ピアノの谷川賢作も、良かった。ホールの音響も意外に優れていたけれど、PAが入っていたためか、その音色は、当方の全身に突き刺さった。
ナビゲータ役のmitatake(佐野岳彦=ヴォーカル・ハーモニカ、見田諭=ギター)の演奏も十分に満足。見田のギターは、うん、なんか、スゴイ。岳彦の喋りはイマイチ、というか、まだまだだったけどね。
この5人で、冒頭に「雨が空から降れば」。当日は、まさしく雨天。相応しく、味わった。
ラストで再び、5人で「出発(たびだち)の歌」。
これ以上の満喫、近年になく。

そして、2度目の「出発(たびだち)の歌」を聴くことになったのは、「平成21年度自衛隊音楽まつり」というイベント。文字通りの、自衛隊の音楽隊による演奏会。所は、武道館。7000人ほどが集まった。聞けば1日3回の興行とかで、ぼくは夜の部の、一般には非公開の回、知り合いに誘われて。鳩山首相も来ていた。

在日米陸軍や在沖米海兵隊の音楽隊も共演、かれらの、ややカジュアルな演奏ぶりに比べると、我が自衛隊は、きっちり、という感じ。でも、「もののけ姫」やら「戦場のメリークリスマス」やら「天地人のテーマ」やら、馴染みのメロディも少なくなく、楽しめた。「ガンダム」や「ヤッターマン」、それから「宇宙戦艦ヤマト」まで登場したのには驚いた。圧巻は、陸自・海自・空自の合同での「太鼓」。腹に響いた。あぁ、それから、ホンモノの「軍艦行進曲」には、ちょっと苦笑いしたものの、さすが本家、勇壮だった。

なんだか、不思議な1週間。さあ、未来に、飛んでゆこうかな……。

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2009年11月16日 (月)

会えるかもしれない

明日は、いよいよ小室等+こむろゆいの親娘ユニット「Lagniappe(ラニヤップ)」のライブだ。
前述(10/24付け)のとおり、ニューアルバム「ここ」の発売(12月2日)を記念してのもの。全13曲、披露してくれるのかな。「雨が空から降れば」も、聴けたら嬉しいなあ~。

記憶にある最初の、生の音楽系イベントは、親に連れられて行った、ナベプロ主催の新春なんたらかんたら。たぶん、1967年だと思うが、確証はない。
当時のメインは、あの「ザ・ピーナッツ」であり、いまやメンバーが少なくなってしまった「ハナ肇とクレージーキャッツ」といった、1960年代に「お茶の間」を楽しませてくれた面々。

70年代のお笑いをリードした「ザ・ドリフターズ」は、すでに、いかりや長介がリーダーとなっており、ビートルズ日本公演の前座も務めていたが、まだまだ新人扱いだったような。もちろん、志村けんは未加入。

同じく、グループサウンズの伝説「ザ・タイガース」はデビュー前で、たしか「内田裕也と~」と紹介されたような。岸部シローは加入していない。その兄(岸部一徳)は岸部修三と名乗っていたころで、『相棒』の小野田公顕はじめ俳優として活躍するずっと以前の話。

アラ還ながらアイドル好きのミーハーではあるが、彼・彼女らのコンサートなどに行った回数は、それほど多くない。いや、待てよ、あらためて振り返ると、うん、ほとんどないと言うほうが正しいかな。吉田拓郎が一回、それも80年代なってから。マイベスト1の中島みゆきは、いつかも触れたけど、一度もない。少しズレるが、「紅白」はリアルに観たことがあるけど。

在米時代は、「ビージーズ」はじめ、いろいろと。ハリウッド界隈のジャズクラブ(および、その類)にもよく通った。これは、おそらく、クルマという足を持っていたから? あのころは、けっこうフットワーク軽かったからなあ~、体重も50キロ台だったし……。

最近になって、ここでも書いたけど、どういうわけか、機会に恵まれるように。麻丘めぐみの歌を生で聴くなんて、想像もしなかった。週末には、とある「音楽祭」にも、誘われて。

明日17日の「ラニヤップ」のライブは、100人も入れば一杯の、こぢんまりしたものだから、じっくりと堪能してこよう。後日、報告しますね。

せっかくなので、しつこく宣伝。
会場は東京・中目黒の駅前「中目黒GTプラザホール」。開場19:00、開演19:30。出演は、小室等+こむろゆいのほか、谷川賢作(ピアノ)がゲスト。今後の活躍が期待されるコンビのmitatake(佐野岳彦=ヴォーカル・ハーモニカ、見田諭=ギター)も。チケットは当日4000円、前売だと3500円、全席自由です。問い合わせ先は「ココらく」(電話03-3475-1693)。

ちなみに、モスグリーンのハンチング姿の太目のメガネ「独尊男」の正体を知るチャンスです。って……。

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