2010年6月17日 (木)

男ひとり

この「唯我独尊」チョイワル・ワガママ「アラ還」オヤヂは、「この世に唯独り」を信条にしているから、連れ合いに先立たれても大丈夫、などと思われるかもしれないが、世の中の多くの亭主族と同様、「おひとりさまになったときのことを」「考えてはいない」(『男おひとりさま術』中澤まゆみ著、法研)もので、そりゃあ、大いに戸惑った。

この本、惹句に「あなた、わたしがいなくなっても、この本があれば、大丈夫ね」とあるが、時すでに遅し。10年前に読んでおけば役に立っただろう。同様に、『男おひとりさま道』(上野千鶴子著、法研)も、読み物としては面白かったけれど、間に合わなかった感が強い。

2冊とも、拙ブログのレギュラー・コメンテーター、というよりは、我が師seigu翁よりの紹介であれば、いきなり何をイチャモンつけとんねん、と、お叱り必定。ご容赦。

でもね、40代で、やもめ暮らしになるとは、ふつう、考えないよなあ~。だから、これらの本が10年前に刊行されていても、おそらく、いや、間違いなく、書店で手にすることはなかっただろう。

所詮、ないものねだりか……。

ただ、ここの読者たちの多くは、連れ合いをお持ちだから、目を通しておいて損はない。若くても40代のようだし、50代から60代にかけての、当方と同世代の男性諸氏には、必須かも。翁が「実践情報書」と命名するように「これからの長い老いの時期を考え、英気を養い、戦略を練る。そんな人にふさわしい本」(翁のHPから引用)だろう。

それから、ときおりコメントをくれる、ますもとさんのブログでの紹介も一読に値するので、リンクを。
http://blog.livedoor.jp/masu0504/archives/51786242.html

それにしても、本書の内容とも重なるが、女房の実印を探すのには苦労したし、銀行口座のカードの暗証番号はついにわからなかったし、遺品の整理は未だ。いざとなったら、たいていの場合、男は、どうにも意気地がない。

幸い、ご存じのように、ぼくは相方を得た。非同居・非入籍だが、どうにかこうにか、おかげさまで「暗い老後」だけは免れそうだ。もう2週間も顔を見ていないが、最低一日一通のメールを命綱に、生きている。法律や制度も必要だろうが、少なくとも小生には、ひとりの女性の存在が……、なんて書くと、「いつまでもラブラブで」てなコメントがつくんだろうか。いいけどさ。

| | コメント (2)

2008年7月 5日 (土)

「ハヤカワ」との出合い

さて。夢破れて。懐古趣味に走る。ぼくが出合った、輝かしいSFたち。振り返ってみよう。
意識して読んだ最初のSFが何だったか、覚えていない。ミステリー好きとしては、おそらく、中学生のころから、何冊かの「空想科学小説」も手にしたはずである。だが、当時、まずは「純文学」、そして推理小説に忙しかった。いちお、学校の勉強もあったし。

思えば、10代の終わりに、大きな角を曲がったようである。
「SFとの遭遇」については以前、ちょっとだけ触れた。その日、浪人中の初夏だったか、友人と渋谷のセンター街を歩いていた。いまと違って、少し猥雑な香りのする界隈で、ハチ公前交差点から入って5分くらい歩いたところにある「ウィーン」という喫茶店をヒイキにしていた。午前中はコーヒーが半額になるのだ。たしか、正価が80円だったかな。浪人生は懐が寒い。つまり40円で、2時間はネバった。その友と、いろいろな話をするのが、週に1回か2回かの「日課」だった。
その、中高時代からのつきあいで浪人仲間でもあった彼とは、センター街の入り口にあった喫茶店「ホーカー」にもよく行った。ほとんど毎日のように会っていたからね。あと、宮益坂をあがったあたりの雀荘にも通ったものだ。もちろん、予備校にも、ときどきは。これで、よく、大学生になれたものだ。
もうひとつ、南平台に、当時としてはシャレた構えだったと思うが、「チビ」という名の、文字どおりの小さな店があって、ここではストレートコーヒー、たいていはキリマンジャロを飲んだ。150円だったかな。まだ120円だったかも。ぼくにとって、閉店までの6年間あまり、いくつかのドラマの舞台になった。が、その話はおいといて。

「ウィーン」の手前で、ぼくらは中高時代の2人の先輩に遇った。卒業以来1年と少々、久しぶりの邂逅。あっさりとは説明できない関係なので、親しい間柄の先輩とだけ。その2人も、ぼくら同様、よくつるんでいた。ぼくらの学校は、渋谷を基点にするエリアにあったので、まあ、それほど「ありえない話」ではないけれど、やはり、かなりの偶然ではあったろう。
4人で「ウィーン」に入り、雑談。内容は覚えていないが、ぼくらの関係にかかわるネタだったろう。そのひとつに、本がある。文学というほうが適切かな。「いま何を読んでいる?」「あれは面白い」といったような話になるのは当然。
そのなかで、M先輩が口にした言葉が、大袈裟かもしれないけれど、ぼくの人生を変えた。「おまえは、SFを読むべきだ」。そう言われた。ミステリーはあくまでも「娯楽」で、メインは「純文学」していることをよく知る先輩である。
この先輩、実は、漫画を描いていて、有名な漫画家の、まあ、弟子みたいなことをしていた。その漫画家の作風は、SF的といっていいだろう。先輩自身、高校生のときから「プロ」だった。ちゃんとギャラを稼いでいたのだから、「趣味」の範疇ではない。もちろんペンネームでだが。後に、先輩宅に遊びに行くと、手塚治虫の全集がズラリと並んでいた。この先輩も医学部志望だったのだ。目標の大学に進めなかったことで、あえて浪人していた。結局は、小学校の教師になったが、ラジオドラマの脚本を書いたりと、いわゆるマルチな才能をもつ人だ。
この当時は、それほど心酔していなかったが、一目置いていたことは確かで、その人の助言、というのかな、ナンだろう、ま、とにかくも、薦めだから、素直に従うことにした。

Photo_5Photo_4その足で渋谷・紀伊国屋または三省堂に行ったかどうかまでは、覚えていない、が、この2店は「いきつけ」だったので、おそらくは。
残念なことに、何から読み始めたのか、記憶にない。しかし、たぶん、小松左京だろう。それも、ハヤカワのポケット・シリーズ。いまなお(数奇な運命の末ではあるが。その話もまたいずれ)、ぼくの本棚に数冊、鎮座している。
購入の順番は不明だが、いずれも短編集で『地には平和を』(発表1963年)、『影が重なる時』(1964)、『日本売ります』(1965)などだ。これらを、1970年の夏から秋にかけて、その後も含めて、ぼくは読んだ。はまった。完璧に、魅せられた。
果たして、筒井康隆、星新一、眉村卓、豊田有恒へと突き進み、もちろん海外の、クラーク、ハインライン、アシモフ、あぁキリがない!

「純文学」は70年代半ば以降、次第に色褪せていく。「共産党宣言」に代表されるジャンルも、ほんの一瞬。ノンフィクションは、ときおり。
この38年、ぼくは、ずっと、その、虚構の極みの世界を愛し続けている。

| | コメント (14)

2006年12月 9日 (土)

戦争はあった

12月8日というと、どうしても、前項seiguさんのコメント中にもあるように、「日米開戦」のことが頭をよぎります。この国がかつてアメリカと戦争をしたことなど、思いもよらぬ人が増えてきているようですね。ウチは、以前にも触れたように、父親が「旧帝国陸軍軍人」なので、この日のことは、ぼくが幼いときから食卓の話題になっていました。でも、これも前述したように、体験の詳しい話は一切、父親の口から出てきません。せいぜいが、邦画で日本の兵士が銃をバンバン撃っているシーンで「あれはおかしいぞ、連射なんでできなかった。弾がもったいないからと1発ずつしか撃たせなかったんだ」とか、戦争実体験のない者が描く戦争映画のウソについて。

いまは亡き勝新太郎たちが主演の「兵隊物語」(みたいなタイトル)だけが「最も事実に近い」と言う父や、「授業が始まるとすぐに空襲警報で防空壕へ、という毎日だったから満足に勉強していない、だから知識なんてないのよ」と弁明する母、そして、2月1日だったか毎年「(昭和22年のシベリア抑留からの)復員記念日」を祝う家庭、戦争はけっこう身近でした。同級生の父親で、実際に戦地に赴いた経験のあるケースは少なかった。まして「捕虜」の体験など。そういえば「戦友」(だったかな)というテレビドラマ、真剣に観てましたね。

1970年代に、家族旅行でハワイに行ったとき、すでに本土も見てきていた父は、「こんな(物量豊かな)国と戦って勝てるわけがない」と、しみじみ口にしていました。たしかに、初の海外だったぼくの目にも、スケールが何もかも、我が祖国とは違っていた。日本では飲んだことのない果汁100%のジュース、安いステーキ(当時は「ビフテキ」と呼んでいましたが)、クルマはでかく、ハイウェイは片側4車線だったか。ビーチはキレイで、人が少なく。スーパーには、とにかく物が豊富で。名前の知らない野菜がたくさん並んでいた。

真珠湾では、ほとんど一言も喋らず。現在はどうだか知りませんが、当時、日本人観光客は少数で、ほとんどが身内を亡くしたアメリカ人。つまり弔問でしょうか。ツァーだからといったノーテンキな気分ではいられませんでした。ま、ワイキキビーチでは、はしゃぎましたけどね。(これも書いたかもしれないけれど)観光客相手ではない店で買い物をしたとき、日本語が通じず、「ガイドブックはウソばかり」と嘆き、そのうえ、10年以上勉強した英語も通じない。その「ショック」とハワイで見聞きしたことが、その1年後の米国留学の「布石」になったわけです。

敬愛する小松左京は、1960年代に『地には平和を』(直木賞候補)を書きました。同じころ『戦争はなかった』という短編も発表しています。どちらも優れた戦争文学だと思います。ただ、これらは「SF」というジャンルに分類されたためか、文壇の主要な賞を受けることはありませんでしたが。これ以外にも戦争をテーマにした作品は多い。1931年生まれですから、あの戦争は実体験ですね。大阪生まれで、外見がどことなく父に似ています。お互い太っているときですけれど。京大文学部卒で、それゆえ京大を志望したことがあります。偏差値的に不可能でしたけれど。

『戦争と人間』(五味川純平著)も、反戦の立場を超え、不朽の名作でしょう。映画化されたものも観ました。吉永小百合が可愛かった、とか、栗原小巻が色っぽかった、とか、不純な要素も含まれますが、ぼくは20歳そこそこ、高校や中学では習うことのなかった、初めて知る事柄の多さと悲惨さに、衝撃を受けました。中国(支那・満州)戦線が舞台で、父の姿をスクリーンの向こうに見ていた気がします。どうでもいいことですが、この映画、当時つきあっていた女性と一緒に。そんな思い出もあります。三部作ですが、全部を一緒ではなかったような。いや、だいたい、すべて同じ女性とだったのか……。

この映画、何度なく、テレビなどで放映されていて、繰り返し観ていますが、いつだったかなあ、戦後60年記念なら去年か、そのときは、地井武男扮する朝鮮人義勇軍(?)兵士(徐在林)が、戦闘で恋人を亡くし、かの地に埋めるシーンで、不覚にも涙しました。もちろん初めて。そんなことが、しかし、最近、増えています。昔に観た映画で泣いた記憶などないのに、久しぶりに再見すると……。半世紀も生きていると、いろいろな経験をするものですね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)