「ハヤカワ」との出合い
さて。夢破れて。懐古趣味に走る。ぼくが出合った、輝かしいSFたち。振り返ってみよう。
意識して読んだ最初のSFが何だったか、覚えていない。ミステリー好きとしては、おそらく、中学生のころから、何冊かの「空想科学小説」も手にしたはずである。だが、当時、まずは「純文学」、そして推理小説に忙しかった。いちお、学校の勉強もあったし。
思えば、10代の終わりに、大きな角を曲がったようである。
「SFとの遭遇」については以前、ちょっとだけ触れた。その日、浪人中の初夏だったか、友人と渋谷のセンター街を歩いていた。いまと違って、少し猥雑な香りのする界隈で、ハチ公前交差点から入って5分くらい歩いたところにある「ウィーン」という喫茶店をヒイキにしていた。午前中はコーヒーが半額になるのだ。たしか、正価が80円だったかな。浪人生は懐が寒い。つまり40円で、2時間はネバった。その友と、いろいろな話をするのが、週に1回か2回かの「日課」だった。
その、中高時代からのつきあいで浪人仲間でもあった彼とは、センター街の入り口にあった喫茶店「ホーカー」にもよく行った。ほとんど毎日のように会っていたからね。あと、宮益坂をあがったあたりの雀荘にも通ったものだ。もちろん、予備校にも、ときどきは。これで、よく、大学生になれたものだ。
もうひとつ、南平台に、当時としてはシャレた構えだったと思うが、「チビ」という名の、文字どおりの小さな店があって、ここではストレートコーヒー、たいていはキリマンジャロを飲んだ。150円だったかな。まだ120円だったかも。ぼくにとって、閉店までの6年間あまり、いくつかのドラマの舞台になった。が、その話はおいといて。
「ウィーン」の手前で、ぼくらは中高時代の2人の先輩に遇った。卒業以来1年と少々、久しぶりの邂逅。あっさりとは説明できない関係なので、親しい間柄の先輩とだけ。その2人も、ぼくら同様、よくつるんでいた。ぼくらの学校は、渋谷を基点にするエリアにあったので、まあ、それほど「ありえない話」ではないけれど、やはり、かなりの偶然ではあったろう。
4人で「ウィーン」に入り、雑談。内容は覚えていないが、ぼくらの関係にかかわるネタだったろう。そのひとつに、本がある。文学というほうが適切かな。「いま何を読んでいる?」「あれは面白い」といったような話になるのは当然。
そのなかで、M先輩が口にした言葉が、大袈裟かもしれないけれど、ぼくの人生を変えた。「おまえは、SFを読むべきだ」。そう言われた。ミステリーはあくまでも「娯楽」で、メインは「純文学」していることをよく知る先輩である。
この先輩、実は、漫画を描いていて、有名な漫画家の、まあ、弟子みたいなことをしていた。その漫画家の作風は、SF的といっていいだろう。先輩自身、高校生のときから「プロ」だった。ちゃんとギャラを稼いでいたのだから、「趣味」の範疇ではない。もちろんペンネームでだが。後に、先輩宅に遊びに行くと、手塚治虫の全集がズラリと並んでいた。この先輩も医学部志望だったのだ。目標の大学に進めなかったことで、あえて浪人していた。結局は、小学校の教師になったが、ラジオドラマの脚本を書いたりと、いわゆるマルチな才能をもつ人だ。
この当時は、それほど心酔していなかったが、一目置いていたことは確かで、その人の助言、というのかな、ナンだろう、ま、とにかくも、薦めだから、素直に従うことにした。

その足で渋谷・紀伊国屋または三省堂に行ったかどうかまでは、覚えていない、が、この2店は「いきつけ」だったので、おそらくは。
残念なことに、何から読み始めたのか、記憶にない。しかし、たぶん、小松左京だろう。それも、ハヤカワのポケット・シリーズ。いまなお(数奇な運命の末ではあるが。その話もまたいずれ)、ぼくの本棚に数冊、鎮座している。
購入の順番は不明だが、いずれも短編集で『地には平和を』(発表1963年)、『影が重なる時』(1964)、『日本売ります』(1965)などだ。これらを、1970年の夏から秋にかけて、その後も含めて、ぼくは読んだ。はまった。完璧に、魅せられた。
果たして、筒井康隆、星新一、眉村卓、豊田有恒へと突き進み、もちろん海外の、クラーク、ハインライン、アシモフ、あぁキリがない!
「純文学」は70年代半ば以降、次第に色褪せていく。「共産党宣言」に代表されるジャンルも、ほんの一瞬。ノンフィクションは、ときおり。
この38年、ぼくは、ずっと、その、虚構の極みの世界を愛し続けている。


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