2012年10月 6日 (土)

映画館はステキだ

10月は「決算期」、期末(10/14)前に、更新しておこう。

久しぶりに、映画館に行った。もちろん、映画を観るためだ。取材ではない。はて、いつ以来か、すぐには思い出せない。たぷん、最後は『相棒』の1だったかな、2はDVDだったし、ならば、4年ぶりかな。

しかし、単身。これはもう、記憶を呼び起こすのが簡単ではない。ここ10年はないと断言できる。20年、いや、30年を超えるかも。アメリカから引き揚げてきて31年だから、あらら、35年以上、独りで映画を観たことがないのかも……。

だいたい、大画面で観ることが少なくなった。昔は、って若いときのこと、よく行ったけれど、結婚して、日本に戻ってきて、子供が生まれ、いつのまにか疎遠に。そのうち、レンタル文化が台頭してきて、当初は高料金だったけれど、2人以上なら元が取れた。

『戦場のメリークリスマス』のあとが思い浮かばない。いや、まてよ、我が敬愛の作家、小松左京さんの原作かつ総監督の『さよならジュピター』は、何年だった? こういうときは、さくっとwiki活用。なるほど。前者が1983年5月、後者は1984年3月。

ほぉ、84年は娘の生年。公開時は生後1か月。一緒のはずはなく、でも、乳飲み子を預けてのシチュエーションも考えにくく、ふむ、近くの映画館にまわってきてから、5月とか6月とか、もっと遅くかも。夫婦で観たことは確かだ。がっかりしたねと語り合った。小松さんが脚本まで担当しちゃったからか、ドラマとしての流れが悪くてね。当時のCG技術のレベルは不問にしても。

まあ、「金返せ」とまでは言わないまでも、期待外れのショックからか、このあと、映画館に足を運ぶのに躊躇するようになった。あぁ、子連れのファミリー映画なら、行ったかも。俄かには思い出せないけど。

で、前述のごとく、レンタルビデオを選択。『ダイ・ハード(1)』(89年)あたりからは積極的に。料金的にやや手ごろになり、そのころとしては大画面28インチのブラウン管テレビを買ったこともある。周知のように、レンタルDVDの今日まで安くなる一方、劇場のほうは逆に高くなり、いまや我がテレビは37インチ。

映画館にも何度か。でも、どちらかといえば「デート・コース」的な位置づけに。10代~20代前半までとは大違い。あのころは、名画座やらATGやらで、問題作やらヨーロッパ映画やら。独りが多かった。

アメリカでは、私的には『寅さんシリーズ』などを「日本恋しや」的な感じで、友人らと。なにしろ、日本語だからね。前にも触れたが、記者になってからは試写会に。これは、一応、仕事。だけど、独りではなかったと思う。当然、字幕なしの英語です。『ロッキー』の訛りには苦労した。

これまた以前書いたことだけど、理解できなかった映画の最たるものが『エイリアン』(もちろんエピソード1)。事前情報まったくゼロ。公開前だから「Alien」と聞いてもピンとこず。「外国人」の意味だしね、SFだとは知らず。映像はかなり衝撃的で、満足感は低くなく、でも筋がわからず。

帰国して、たぶんテレビ放映で、ようやくストーリーを理解。その前後、おそらく後に「2」が公開されたが、劇場では観ていない。その流れで「3」も「4」もレンタルだ。テレビ放映では全作を録画し、何回か観直している。そう、完璧に、ハマった。第一作は、ぼくの「映画史」のなかでベスト10入り間違いなし。

いつもの悪い癖で前置きが長くなったが、察しの良い読者はおわかりであろう。そんなわけで、久しぶりに単独鑑賞した映画は『プロメテウス』。シリーズとは独立しているとの情報もあったが、どう考えても、あの予告編の映像からは「前日譚」だもの。レンタルまで待てなかった。

もうひとつの理由。それでも、公開から1か月余、我慢した。いまや半年足らずでDVD化されるのは承知。年明けなんて、すぐだ、と。未練たらしく、公式サイトで、まだ上映しているところはないかと調べていたら、たまたま取材先の近くで、1日1回だけど、ある。

そのうえ、なんと、1000円で観られることを発見。シニア料金。そう、ぼくは、還暦オヤジ、紛うことなきシニアなのである。うん、長生きはするもんだ。

映画の感想? それは書かない。堪能した、とだけ。でっかい画面は、やはり、いい。

| | コメント (3)

2010年6月30日 (水)

7月を前に

今年も前半が終わり、振り返ってみようかと思ったが、去年もやったことなので、何か芸がないね、ヤメた。
後半への展望? うむ、それも、らしくない気がする。ひとつ、年内に事が動くかもしれないのだけど、すぐれて個人的、というか、オープンにすべきことなのかなあ……、わからん。

春から夏にかけて観た映画のことでも。
『2010』も『アバター』も、あまり感動しなかった。スケールの大きさは確かで、その意味では見応えあるんだけど、結論すれば、それだけ。とくに後者はメチャ大ヒットの理由が、納得できない。ま、大画面でなら、もう少し点数高くなるかも。って、どのみち点数なんかつけていないんだけど。なにより、映画館で観ないとダメな映画って……。

邦画『さまよう刃』は期待もしたが、やはり小説の素晴らしさを超えられなかった。『笑う警官』も同様。もちろん、別物とは理解するが、「絵」には「文字」とは異なる感動を期待するものね。とくに前者は、慟哭の一作なのに、映像が平凡。キャストに不満はないけど、原作とは違う結末でもいいけど、観る者の心を揺さぶるようなモノがなかった。残念。
蛇足ながら、もうじき公開の『ロストクライム・閃光』、これも原作は堪能したが、さて、どのような映像になっているんだろう。

『カイジ』『アマルフィ』は、たまたま同時期に。はい、どちらにも天海祐希が出演していて、ぼく、ファンです。だから、楽しく観た。けど、ドラマとしては、うむ、イマイチ。プロットもなかなかだし、役者は揃っているのに、面白かったと強調できるほどの出来ではなかった。

期待したかもしれない『沈まぬ太陽』、なんだかなあ……。3時間半を長いと感じてしまった。不思議だったのは、本編とは関係ないけど、DVDなのに「休憩」がリアルにあったこと。実際に映画館で観た人から「いきなり休憩ですって場内が明るくなって驚いたよ」と聞いていたけど、DVD鑑賞に、そんな必要はあるんだろうか。

そうそう、期待していなかったせいか、『カール爺さんの空飛ぶ家』は、けっこう楽しんだ。ハリウッドの、アニメ、というのか、実写ではない、こういう子ども向け、うん、意外にバカにしちゃいけないんだよね。実のところ、大人向けだったのかも。

振り返ると、『愛を読む人』に高得点かな。ぼくは事前に予備知識を入れないほうなので「完全無修正版」の表示に訳わからず、観たら、あぁなるほど、ではあったけれど、いまどき、こんなくらい、どうということもないよね。むしろ、もっと露骨に描けばよかったのに。でも、ストーリーには、ちょっとウルウル。ドイツの「ナチ」問題は、根深くて、アジア人として同調しにくい面もあるが、こうした作品では「事実に基づいた」という点が、有意義に、心に迫る。

それから、『母なる証明』。韓国映画には、なんだろう、なにか、こう、こちらの柔らかい部分に、ストレートに突き刺さってくる何かが、あるんだよね。これは、母性の映画。でも、恐ろしいほどの母性。その恐ろしさに、思わず後退りしてしまう。ホラーだね。無前提に高い評価とは言いにくいが、ラスト間近のギョッとさせられたところ、そこんとこ、観て損はない。

日本映画にも、そこそこ満足したの、あったような気もするが、ま、いいや、思い出したら、また書こう。

| | コメント (5)

2010年3月29日 (月)

春はまだかな

今シーズンも、相方の要望時を除けば、暖房なしで乗り切った。ん? 過去形にしてもいいのかな。春はそこまで来ているようだけど、昨日きょう、またぞろ冬に逆戻りの寒さ、溜め息が出ちゃう。明日は都内で取材。どんな格好して行こうかな。コートはやはり必要だろうなあ……。

「サンデープロジェクト」が終わった。この番組のおかげで、たしかに、日曜の朝のパターンが変わった。21年前、ちょうど仕事が忙しくなってきたころで、勤め先は週休2日制でも、現実には土曜日に在宅していることは少なかった。いきおい、週に一度の休みの朝は寝坊を享受するように。ところが、田原総一朗氏の「活躍」により、惰眠を貪れなくなった。ビデオは持っていたけれど、生放送だからね。

とにもかくにも、楽しんだ。いわゆる、挑発型の、戦う司会者(ご本人は「ディレクター」だと)のスタイルは面白かった。後半の10年は、ちょいと飽きてしまった、というか、相手の政治家たちに見抜かれてしまい、あまり奏功しなくなって、つまらないと感じることが多くなってきたけど。

以前にも書いたけれど、田原さんとは30年以上前にアメリカで初めてお会いして、その肩書きなしの名刺にカンドーしてしまい、以来、まあ、憧れの存在。ミーハーだよね。「サンプロ」の2年前に「朝まで生テレビ」が始まったときも、これまた録画して観るようなものではないのでリアルにつきあい、月に一度、土曜の朝が寝坊タイムに。

その87年の暮れだったか、当時かかわっていた紙媒体でインタビューをお願いし、30分の約束が1時間を軽くオーバーしながら、いろいろな話を聴かせてもらった。おかしな言い方かもしれないが、このころから田原さんが偉くなりすぎて、気軽に会えなくなった、残念。

それにしても、生涯ジャーナリストというのは、大変だよなあ。40代から知っている身として、田原さん、明らかに老いた。発言者の意図を聞き間違えているような反応を示す光景が、目につく。自らの言いたいことの、言葉を瞬時に思い出せないのだろう、論旨が不明瞭になってしまうケースも、増えた。

まあ、他人事ではない。最近、相方と意見を戦わせていて、途中で、落としどころを見失い、内心で慌てることが、実は、ときおりある。我が優しき相方は、その狼狽を知ってか知らずか、当方の矛盾を指摘したり、いや、指弾したり、反論することはない、ほとんど。

ぼくには、「猛獣使い」は無理だ。って、あ~、相方を猛獣扱いしたら、まずいな。ここらで、今宵は、寝よう。

| | コメント (7)

2010年3月18日 (木)

美人好みではない、はず

レギュラー・コメンテーターのカミ@ダンカミさんとの、やりとりというのか、ま、行き掛かりで、女優の話。あっ、すでにご承知でしょうが、対象は外国人です。国内バージョンは、またいずれ。

マイベスト女優ランキング、そんなには難しくない。まず1位はダントツで、ゴールディ・ホーン。大好きです。6歳ほど年上なので、いまでは、さすがに若いころのようにはいかないけれど、娘(ケイト・ハドソン)なんか目じゃない、メチャ可愛くて、綺麗だ。

見初めたのは、(「サタデー・ナイト・ライブ」からのファンの)チェヴィ・チェイスと共演した『昔みたい』、これまた米国で。原題は「Seems Like Old Times」(80)。そか、すでに30代半ばだったのか。コメディ・クィーンみたいな扱いをされているけれど、たしかに出演作品はその類が多いけれど、ぼくは、妖艶な女優だと思っています、はい。実際、『潮風のいたずら』(87)では、40を超えていたのに、度し難いほどセクシーだった。

永遠の2位は、フランソワーズ・アルヌール。「サイボーグ003」のほうではありません。実在のフランスの女優、御齢78歳(まだ生きてる)。

たしか、まだ10代だったと思う、ある深夜、テレビの放映で出遭った。『ヘッドライト』(55)での、何ともいえない色香に、モノクロ映画だったんだけど、魅せられた。そのころはもう、たぶん引退していたのかもしれない。だから、リアルタイムでは知らないし、出演作も2つ3つていどしか観ていない。だけど、ぼくの、おそらく、憧憬の初恋相手。

ゴールディ・ホーンとの遭遇は前述のとおり、もう所帯を持っていたときだったけど、フランソワーズ・アルヌールは、本格的な恋愛前、つまりは原点なのである。もちろん、実生活において、こんな小悪魔的な女性と仲良くなった経験はないけどね。

ちなみに、渡米前は、よくフランス映画を観ていた。作品としては『男と女』(66)のほうがベストかも。監督はクロード・ルルーシュ、音楽はフランシス・レイ、そして、主演のアヌーク・エーメは、これまた色気の漂う女優だったし。

さて、3位は、少し迷う。『ノーマ・レイ』(79)と『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)とで2度もアカデミー主演女優賞を受賞しているサリー・フィールドもいいんだけど、こちらも年上だ。ふむ。熟女好きと思われるのもイヤだな。

ヘレン・ハントにしよう。彼女は46歳だし。『ペギー・スーの結婚』(86)あたりからのファン。『恋愛小説家』(97)でアカデミー主演女優賞に輝いているが、どちらかといえば名脇役ではないかと。ぼくだけの、勝手な思い込みだろう。いわゆる美人ではないと思うが、チャーミングである。

4位以下はメンドーなので割愛。まあ、ここ20年くらいの大ヒット映画や名作などで知られるビッグネーム、たとえばジョディ・フォスターとか、レネー・ゼルウィガー、メグ・ライアン、ジュリア・ロバーツ、サンドラ・ブロック、アンジェリーナ・ジョリーやスーザン・サランドン、これで全10人か、こんなとこだろう。同率10位でキャサリン・ロスを入れたい気もする。

絶世の美女タイプではないかな。ほのぼの系というか、ちょっとクセのあるほうが好きみたい。言うまでもなく、スクリーンの向こうの人たちだから、リアルな恋愛対象とは異なる。まあ、でも、無関係ではないよね、好みなんだから。

だから、いまでも不思議。相方のような、つまり美系を選んだことが。ま、つきあってみると、見かけとは、かなり違うんだけど……。

| | コメント (2)

2010年3月16日 (火)

ダスティン・ホフマン

さて、ダスティン・ホフマンである。マイベスト3確実の男優。ふむ、じゃ、あと2人は? と自答すると、すぐには思いつかない。いや、デンゼル・ワシントンやらジャック・ニコルソン、トム・ハンクス、ニコラス・ケイジ、ロバート・デ・ニーロ、リチャード・ドレイファス……、名前はいくつも浮かぶのだが。甲乙つけがたく。
もしかして、堂々の1位でいいのかも。

もちろん、きっかけは『卒業』。たしか、高2の夏あたり(68年)だったのではないかな。以後、今日まで少なくとも10回は観ている。それも、ほとんどが映画館で。当初の10年間で(1980年ころまで)。1、2回はアメリカで。
うん、まずは、この映画をマイベスト1にランクしておくべきかな。

続いて、『真夜中のカウボーイ』、そして『ジョンとメリー』かな。大学生のときは『小さな巨人』や『わらの犬』など。『大統領の陰謀』『マラソンマン』は米国に渡ってから(ゆえに、前者はいまも「All the President's Men」の原題のほうがピッタリくる)。そのあとも、主な主演作は、ほとんど観ている。

それほどまでに入れ込んでいる理由は、なかなか説明しにくいけど、まあ、たぶん多くの人がそうであるように、いずれの役でも名演技、ということかな。ぼくとしての順番で、最初が「ベン」役、そして、「ラッツォ」だもの、そりゃあ~魅了されちゃうよね。

その『真夜中のカウボーイ』で(事実上の)鮮烈デビューしたジョン・ヴォイド、これも大好きな男優だ。実は、しばらくは注目していなかったのだが、かの『ミッション:インポッシブル』(96年)で、久しぶりに認識、ざっくり30年間で太ってしまったなあ~と、これは自らにも準えて(同期間で約6割増)、そこはかとない親近感。

ところで、『大統領の陰謀』だけでなく、『クレイマー、クレイマー』もロサンゼルス在住時代に(たぶんプレス向け試写会で)観たのだが、だからもちろん、ぼくとしては「Kramer vs. Kramer」の原題が当然。でも、この「vs.」が当時、日本語としては馴染まなかった、そのために省かれたと記憶している。

その後、いつのまにか、フツーに新聞の見出しに使われたり、と、市民権を得ている。絵文字にもあるよね。うむ、残念、ここにはなかった。ng->こんなのはあるのに。

いつかもちょっと触れたけど、この20年30年のうちに、日常会話のなかで見かける、本格的英語の多さ、いやはや、スゴイね。母国語は、乱れて、というか変化していくこと頻りなのに、一方で、というあたり、我が祖国の独特の言語観、または感性を象徴するようで、興味深い。
このネタ、まだ整理されていないが、そのうち、きちんと論じたいなあ。

| | コメント (2)

2010年3月15日 (月)

ジョンとメリー

このタイトルでピンとくる人、多いかな。定期読者の平均年齢、高いものね。マイベスト10に入る名作だと思う。

『ジョンとメリー』は1969年公開となっているが、おそらく70年になってからだろう、ぼくが観たのは。未成年、というだけでなく「初心」だったので、この映画はショッキングだった。

一夜を共にした男女の目覚めから始まり、ほぼ24時間後の、ラストシーンでやっと名乗りあう、ある意味でロマンチックな、一方でトンデモナイ、なんともステキな物語。実際には、そんなことは我が身に起こらず。まあ、体験者も、あまりいないと思う。

それでも、女性役のミア・ファローが魅力的で、その前年の『ローズマリーの赤ちゃん』で有名になった女優だが、ファンは多かったろう。その後は、社会活動みたいなことに熱心で、あまりスクリーンでは観ることがなくなった。念のためwikiで調べたら、あらま、おトシを召して……、65歳か~仕方ないね。

あぁ、どうしてこんな話を書いているかというと、DVDで先月、40年ぶりに再会したから。2、3回は観たはずだから、正しくは35年ぶりかもしれないが、ともかく、1月だったか、「ネット・レンタル」のリリース・リストを眺めていて、おぉっと狂喜したのだ。

やっぱり、可愛かった。とはいえ、70年代以降も実は、数多くの映画に出演していることがわかったけれど、ほとんど記憶にないから、「メリー」に恋しただけかな。この数年間のいくつかの作品では、もちろん年齢相応の役どころで見かけていて、ちょっと感慨に浸ったり。

ジョン役のダスティン・ホフマンも、若かった。

| | コメント (4)

2009年11月30日 (月)

「ふたり」

女性を愛せない、恋に臆病な男が増えているらしい。その逆もありで、異性とのつきあいがメンドー、とか、煩わしい、とか。
その感覚、もちろん全否定はしない。
そもそも人間関係なんて、いまも昔も面倒だろう、とくに現代では複雑怪奇。理由無く人を殺す輩がいる時代、他人に関わるのが嫌でも、そんなに不思議じゃない。
恋愛ともなれば、さまざまな要素が絡み、流動的というのか可変数が多すぎる。マニュアルも、実際には役に立たないしね。たいがいは、思い通りには進まない。
結婚の二文字が見えてくると、当人同士を超える利害も生じる。
確かに、コトは単純じゃない。

犬猫のほうが、よほどカワイイ。それも、わかる。
言葉を話さないから、憎まれ口も叩かないし、「わたしのことを愛しているか」などと詰問もしない。お節介な親戚もいない。犬のストーカーは、いまい。いても、許せる気がする。マザコンの猫も、まあ、騒ぎ立てることはない。ともかく、自然に親身の愛情を注げるというもの。

飼育すら厄介なら、ぬいぐるみやフィギュアがいい。もはや、おなかがすいたと吼えることもないし、下の世話も不要。病気もしないし、不妊手術の必要もない。もっとも、洋服代は掛かるみたいだが。なにしろ、口ごたえしない。こちらの思うままだ。

なんにしても、生身の人間は、一筋縄ではいかない。
でもね、ぼくには、だからこそ、楽しいんだけどなあ~。
予測のつかないことがあるから、おもしろいと思うんだけどなあ~。

『ラースと、その彼女』という映画を観た。対人関係を築くのが下手な主人公、やっとできたカノジョは、人形だった、それも、さすがの当方も書くのが恥ずかしい、大人のためのドール(察してネ)、という、下ネタ満載の喜劇かと思えば、これが、ちょいとアレでね。
コミカルなシーンは多いものの、この人形を恋人の女性として紹介するラースに対して、アメリカの片田舎の人々は優しく、「アブナイ奴」とは非難せず、その妄想につきあう。何だか、コミュニティのパワーを感じさせる。
さておき、周囲が認知してしまうと、ただの怪しげな(妖しげな)人形が、大袈裟な言い方すれば、人格を持ち始めるのだ。「カノジョにボランティアしてもらいたい」との申し出に「二人の時間が無くなってしまう」と駄々をこねる主人公だが、誰もが人間扱いするようになると、リアルな人間であるかどうか、どうでもいいことに思えてくる。

監督の思惑がどこにあるのか、よく知らないし、ことさら言及するのはやめるが、ラストシーン近くでは、ほとんど哲学的な「妄想」に囚われてしまった当方。これは、ほんとに、人形なのか……。言葉を話さないが、歩かないが、食事を摂らないが、しかし、病を患った結果、そのような状態の人は、珍しくない。

皆が人間として認めたら、人形も人間と化す。では、人形と人間の境は、どこにあるのだろうか。

さて、反対に、誰の賛同も得られなければ、本人がいかに主張しようと、人形は人形のままである、のかな。

実は、拙宅には、2体のぬいぐるみがいて、こいつらとはもう30年のつきあいで、もちろん名前もあって、ぼくは、まるで生き物かのように接していて、相方の失笑を買っているのだが、どんなに古びても、捨てるなんて選択肢は考えられず、我が棺に入れてもらいたいと思う(ここでまた嗤われる)ほどに執着している。

ぼくは、べつに人嫌いじゃないし、むしろネットでも電話でもリアルでも語り合ったりするのが好きだし、とくに女性は生身にかぎると思うし(相方頷く)、フィギュアには特段の興味はないけれど、この「ふたり」は別格だ。

こいつらには魂が宿っていると信じて疑わない。

おかしなカミングアウトと映画と、いったいどう関係するのか、よくわからなくなってきたので、もうじき師走だし、このへんで。

| | コメント (0)

2009年11月13日 (金)

巧言令色鮮矣仁

タイトルは本文と関係ありません。って……coldsweats01 いや、TBS日曜劇場「JIN -仁-」について一言、どうしても。

なかなか面白いとは思う。相方も同意見。とりあえず、毎回けっこう楽しく観ている。別に、綾瀬はるかが出演しているから、ではなく。続きはどうなるのか、ちょっとワクワクしながら期待もする。実際、視聴率は好いし、この記事のためにネットをざっと検索すると、高い評価が多いこともわかった。

だけど……。ひとつだけ、引っかかっている。

言葉は通じるのか、という点だ。江戸末期、いまから150年ほど昔である。それほどの過去ではない。現代日本語との共通点は少なくあるまい。専門用語や外来語および外国語本体は無理だとしても、なんとかコミュニケーションは成立するだろう。

とはいえ、幕末に生きる武士や町人たちと現代人との会話が、ハナから難なく成立するとの展開は、いささか無理があるのではないか。まずは、喋りのスピードがまったく異なるはずで、江戸の人間に主人公・仁の話す言葉が聞き取れるのか。かなり疑問に思っている。

1970年代後半に日本を離れていた当方、帰国して初めて「THE MANZAI」とも表記される、たとえば紳助竜介やツービートらの漫才に接し、ほとんど理解できなかった。かれらの早口が聞き取れなかったのである。日常会話なら不便は感じなかった。でも、そのシャベクリに慣れるのには多少の年月が必要だった。

そのころの記憶では、たしか、NHKのアナウンサーの話す速度は1960年代には1分間に約300文字だったものが、約350文字になった、とか。現在では、400文字あたりか。たった2、3割であるが、これでもう、高齢者からは「もう少し、ゆっくり喋ってくれないと、わかりにくい」という声が出ていると聞く。

1世紀を超える年月を経て、ぼくらの会話はどれほどスピードアップしたのだろう。もちろん、それだけでなく、発音や単語そのものも大きく変化したはずである。また、鼻音。いまなお吉永小百合は使えるそうだが、ぼくはダメだ。違いすら判別できない。

仁クンが三代続いた江戸っ子で、べらんめぇ調の言葉を理解する人間という設定なら、あまり心配しなくていいかも。だけど、そうではないみたいだし。「頑張りましょう」なんて、仁クンは気軽に口にし、相手もわかったふうだが、本当に? 逆も、同様。ちなみに、ドラマには書き文字も登場する。

もちろん、所詮はフィクションだから、そんなに目くじら立てて批判することもないだろう。だけど、幕末期には存在しなかったペニシリンを現代知識により作り出してしまう、という展開でもあって、そこんとこは医学的に可能との判断はあるとして、それゆえに、「スゴイ、江戸時代でも点滴ができるんだ」などと、観る者に感動を与えているわけで。

そのうえ、主人公は、それなりにタイムパラドックスの問題で悩んだりもする。意思疎通に関しても、時代考証は加えているに違いないだろうけれど、言葉の壁って存外、高いのではないか。せめて、初回くらいは、もっとギャップを描いてもらいたかった。

これが、鎌倉時代とか平安期となれば、もう生き証人は存在しないし、乱暴に言えば、通じるわけがないから、そこは目をつむるとしても構わない。でも、ぼくらの幼いころには明治生まれは当たり前に居たし、維新前の人もギリギリ存命だった。無視はできない。

物語では、多少のスレ違いは描かれているものの、コミュニケーションに支障はないようだ。21世紀に生きていた現代人は、食べ物も含め幕末の世界・習俗に瞬く間に馴染んでしまったように見える。そこのところが、どうにも納得しにくいのである。

| | コメント (2)

2009年11月 9日 (月)

ファイナル・フロンティア

2009年版『スター・トレック』を観た。流行りの、いわゆる「ビキニングもの」「ゼロもの」の範疇かな、映画自体も面白かったが、その部分での満足度、深く。いつになく、余韻に浸っている。

1960年代のテレビドラマシリーズで、本国アメリカのみならず日本でも人気は高く、やがて映画化され、その11作目。テレビドラマのほうも新しいシリーズが作成されたりして、40年以上経ったいまも熱狂的ファンは少なくない。

こんな説明、「トレッキー」または「トレッカー」と呼ばれるマニアなら不要だが、小生ていどのレベルでも、「あの」という形容詞をつけたくなる、SFの古典である。名前くらいは知っている人、けっこう多いのでは?

日本では『宇宙大作戦』(のち『宇宙パトロール』に改題。もっとも記憶にはないけど)という邦題だった。ビデオ録画の手段がない時代だから、全作品は観ていないと思う。でも、「ワープ航法」を駆使しつつ宇宙深く探査を続け、さまざまな文明や生命体との、まさに未知との遭遇ストーリーにワクワクしたものだ。なにより、冒頭のナレーション。

映画版第1作は1979年、どこかで書いたかな、滞米中に観た。もちろん原語のみで、ちょっと不明な箇所もあったけれど、とにかく興奮した。人気テレビシリーズの映画化は、いまでは当たり前だけど、当時は、『スーパーマン』も同類で、このあたりが走りだったんじゃないかな。主役級の俳優たちの少しトシをとった姿は、なんだか同窓会のようで。

以後、オリジナルメンバーによる5作(計6本)は日本で。映画館でか、それともレンタルかテレビ放映か、忘れたけど、いずれも楽しんだ。ちなみに、マイベストは第4作目。7作目からは設定や俳優が変わり、第2世代に移った。その後、テレビシリーズでは第3世代へと進んでいるようだが、そこらへんは観てない。

今回の09年版は、オリジナルにつながるストーリーだから、ある種の予定調和というか、いや、その逆バージョン、ん? それも不正確な表現かなあ。要するに、メイン・キャストの若きころが描かれているわけだが、「これが、あのカークの船長としてのスタートか」とか、「論理のスポックも若いときは感情的だったんだね」とか、「ドクターが『ボーンズ』と呼ばれるのには、こういう理由があったのか」とか、まあ、そういう「原点を覗く」楽しみ。そうした意味で、すこぶる堪能した。

それにしても、トボけた演技が味わい深かったドクターことディフォレスト・ケリー、すでに亡く。スポックとの掛け合い漫才のような会話、幾たびも笑わされた。新シリーズ化されたら、また再び、楽しめるのかな。

ちなみに、生みの親であるジーン・ロッデンベリーと、機関長スコットを演じたジェームズ・ドゥーアンの両氏は、世界初の宇宙葬で、その遺灰は宇宙の彼方へと打ち上げられたという。羨ましい。

| | コメント (0)

2009年8月23日 (日)

官僚たちの夏

そもそもは、夏ドラマのなかでは最も注目の「官僚たちの夏」の初回で少し感じるものがあったので、そのあたりのことを書こうと思ったのだが、とりあえず2、3回は観ないと一方的になるかな、と、「夏」にちなんでのネタを挟んでいたら、なんとなく、時機を逸した、かも。

低視聴率(10%前後とか)が表すように、やはり、期待外れだと思うのは当方だけではないようだ。暑い夏に相応しくないのは承知の、熱いドラマ。いや、あまりにアツすぎる。そこに、どうしても違和感が拭えない。さらには、近過去ものの難しさ。「結果」を知る立場の評は当然、厳しくなるはずだが、そのハードルの高さを越えるだけの驚きがない。残念。

構造的には幕末もの、戦国時代ものも同様なのだけれども、その時代に生きていた視聴者はもういない。明治ももはや完全に歴史の彼方であり、だから史実を多少逸脱しても許される。いや、戦国武将など、どうあがいても言葉遣いをはじめ正しくは再現できないのだから、想像の羽を思い切って広げるほうが、楽しい。
蛇足ながら「天地人」はあまりにも現代的「愛」に拘りすぎて、逆につまらない。山本勘助のときもそうだったのだが、主人公の「人間性」やら「偉業」についての自由度が低すぎる。織田信長が果たしてどれほどの「革命家」だったのか、いささか疑ってしまうこともあるけれど、常に魅力的に描かれるのは、つまりはスゴイやつだったのだろう、そう思い込める。実際、兼続に比べ謙信やら秀吉のほうが、よほどアピール度が高い。俳優の力? それを言っちゃ……。

さて。「官僚たちの夏」の舞台は戦後であり、記憶に新しい。ある種のドキュメンタリーでもある。さほど脚色できないのは、理解できる。が、そこをうまく処理するのがドラマ制作に関わる人間の腕の見せ所ではないのか。せっかく役者が揃っているのに、ドラマチックではない。非常に優れた「再現ドラマ」とでも言おうか。
ただただ熱く天下国家を論じられても、それが原作どおりだとしても、感情移入できない。なぜなら、ぼくらは今、「国内派」の保護政策のツケを支払っているからだ。同時に、「国際派」の言い分にも素直に頷けない。昭和30年代に市場開放していたら、その後の奇跡の高度成長がありえなかったかもしれないと知っているからである。

そのうえに、たしかに、無私の官僚が存在したし、あのころの志は高かったと回顧することはできるけれど、それらがすでに単なるノスタルジアであることも、高級官僚の汚職・天下りが珍しくなくなった今日、認めざるを得ない。俗っぽくいえば、「三丁目の夕日」に代表される、センチメンタルな「ないものねだり」だ。

城山三郎は1970年代前半にこれを書いている。昭和40年代。私見ながら、かろうじて「戦後」だった時期である。しかし、もはや21世紀、平成の世も21年が過ぎ、そう、平成生まれの有権者がでてきているのだ。政権交代前夜の、こんな時代に、エリート官僚たちの熱い姿を描かれても、ついていけまい。

ドラマ化の時機を逸した。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧