2006年12月 4日 (月)

with

実は当方、いま修羅場なので、Cさんとの海外取材の思い出話を続ける。
最も印象的だったのは、国際原子力機関の本部があるオーストリア・ウィーンでのこと。泊まったホテルは中レベルだったか、でも、こぢんまりとしていて感じは良かった。翌朝、時差ぼけで早起きしてしまい、どことなく山小屋風の室内で、窓から見た明け方の街の風景。こちらは3階か4階あたり、2階建てくらいの家並みが見渡せた。異国情緒たっぷり、空が白み始めたころなので、幻想的、というか、絵に描いたよう。木造ではなく、何だろう、石造り? どっしりとした感じを受けた。

ウィーンではもうひとつ、本場の本物のザッハトルテを食べた。15年ほど前のことである。グルメ大国日本でも、まだまだ貴重だったと思う。美味、言うまでもなく。そのウィーンへは直行便がまだなく、モスクワを中継。給油の間、機内にとどまるよう求められ、空気を吸うことはできなかったが、たしかにロシアの地に踏み入ったのだ。それだけのことではあるが。パリへの移動の途中、鄙で日本人ビジネスマンと遭遇した。製菓メーカーの課長サンだったか、甘いもの、いまならスイーツか、市場調査だとか。さすが。

ロンドン・ヒースロー空港では、入国審査に約2時間、行列に中東風の姿が目についた。観光客の風情なく。移民か……。その街は、ウワサどおり、霧の都とまではいかなかったが、どんよりとした雰囲気。朝食で、長年の習慣であるコーヒーを注文、失敗した。紅茶の国だった。たしかに、ミルクティは絶品。料理は……語れない。日本でもめったに会う機会のない首都圏在住の友人と、ちょうど赴任中だったので再会できたのも、うれしい記憶。

ずっと西海岸住まいだったので憧れの、ニューヨークには国連本部ほかの取材で2回。一度、大雪に見舞われた。身動きままならず。ロサンゼルス時代の友あり、案内してもらった。さすが現地居住者、旨くて安いレストランを知っていた。ワールド・トレード・センターにも行った。首都のスミソニアン博物館で、展示されている零戦を見たときは、ちょっぴり複雑な気分に。オノボリサンよろしく、ホワイトハウスの前を散策した。なにやら警備が厳しいような。まさに、その瞬間、湾岸戦争が始まっていたのだ。
★with(1990/山田洋次監督映画「息子」イメージソング-1991)

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2006年12月 3日 (日)

TOURIST

Cさんのことに触れたので、その年の4回の海外取材についての回顧談を。アポ取りしただけと書いたが、これが結構な作業だった。ひとつは時差。欧州に2回、ほぼ8、9時間のズレ。相手のビジネスアワーが朝9時にスタートとして、夜中に電話を入れなくてはならない。自宅に戻りアプローチとなる。VIPなので席を暖めてなどいない。なかなか掴まらない。現地の夕刻は当方の朝。メシどころでなく電話、出社してからもトライ。そんな日々の繰り返し。米東海岸は2回、こちらはほぼ逆転だから、夜遅くまで会社から、または未明に自宅から。

言葉も問題。対象は同胞でも、所属先の交換(オペレータ)は日本語を理解しない。共通語の英語で「○○さんを」と言っても、なかには正確な肩書きを知らず、たらいまわしになったり。秘書まで到達するのが、まず初めの関所。誰何されると、当方は日本の雑誌の編集部で、とまず答え、これが大マスコミならともかくも……。さらに「何の用か」と訊かれ、取材趣旨を必死に告げる。そりゃ、英語を使いこなした時期もあったけどさ。

もっとも、やっとのことで取材そのものは快諾されたとして、日程調整が最大の難関。たった一人のために海を渡るわけにはいかない。2人または3人くらいをまとめなければ取材経費が掛かりすぎる。相手は超多忙。それに、同じ都市とは限らない。アメリカのときはニューヨークとワシントンDCで東京・大阪並だったが、ヨーロッパは広い。オートリア・ウィーン~フランス・パリの移動で1日はつぶれる。まあ、おかげで、移動日というかオフの日が発生して、観光、もとい視察にあてられたけれど。

前述の緒方貞子さんのケースでは、国連難民高等弁務官に日本人として初の就任の直後だったので、ことさら多忙を極めていた。その週のどこかで、という約束だけでスイスに飛んだ。1件目の取材でバーゼル市に滞在中、やっと日時が確定した。ホッとしてジュネーブに入った。手前味噌だけど、日本のメディアとしては初の単独インタビュー取材だったはず。おまけに、30分程度しか割けないはずが、1時関半以上もあつきあいいただいた。にこやかに迎えてもらい無事に取材が終わる瞬間、すべての苦労が報われる。編集者冥利に尽きる。
★TOURIST(「夜会VOL.7 2/2」オリジナル曲)

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2006年11月21日 (火)

強がりはよせヨ

いったい誰が英語は世界共通語だなんて言ったのだろう……。それは、仕事でスイスに行ったときのこと。バーゼルという、一部の日本人のみに馴染みのある都市へ。国際決済銀行(BIS)というのがあって、そこの取材。合い間に、街を散策、していたら、国境を越えていた。15年ほど前、ユーロはまだだったが、すでにヨーロッパはひとつの共同体。検問も何もありゃしない。普通に道を歩いていただけで、あっさりとドイツ領に入っていた。県境・市境ほどのカンドーもない。

何という街なのか(いまでも)知らない。ただ歩き回っただけ。喉が渇いた。自販機なんて気の利いたものはない。コンビにもない。カフェらしき店をやっと見つけた。正直な話、雑貨屋みたいな雰囲気。そこで飲んだのはコーラ。好きではないのだけれど、それしか判別できなかった。悔しいが、さすがワールドブランドだと感心。ドイツ語なんか知らない。第2外国語はフランス語だったし。

英語で訊いた。ハウマッチ? 通じない。11/17付けのネタとは事情が違う、発音が悪いのではないよ。けど、まあ、支払いについての会話であることは、おおむね想像がつく。店のオヤジは、何やら金額を言っているようだが、まるでわからない。仕方がないので、小銭を掌に。これか? それともこれ? オヤジ、勝手に持っていく。店を出ても喚かれなかったのだから、支払いは正しく済んだのだろう。多めに取られていないか? こうした状況では性善説に立たなきゃ。

支払い通貨はスイスフランだった。財布にはドルと円もあったが。交換レートは? そんな難しいこと、気にしてはいけない。その街には独自の「外為」ルールがあるのだろう。ちなみに、バーゼル市内ではすべて英語で問題なかった。蛇足。このあとパリに移動した。いったい誰がフランス人は英語を話さないなんて言ったのだろう……。すべて英語で問題なく。第2外国語は? あはっ、まあ、それでもよかったんだけどさ、フランス語は使うヒマなくて……。強がりはよそうネ。
★強がりはよせヨ(1976、研ナオコへの提供曲)

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2006年11月 2日 (木)

旅行外伝

最も古い旅の記憶、それは未就学時、親と一緒の熱海温泉。でも、詳しいことは何も覚えていない。事実ではあるけれど、それは、たぶん、のちのちの、写真を見ながらの後付けだろう。小学校からは、臨海・林間学校などに何回か行っているわけだが、思い出はとくには残っていない。

中学になると、さすがに、多少は浮かび上がるもの有れど、たいていは級友絡みの、まあ、エピソードと呼ぶような内容だ。修学旅行の京都や奈良も、消灯後の悪ふざけなら幾つか、でも神社仏閣などについて語るもの無し。ちなみに、近畿地方には30代以降に仕事でたびたび訪れることになるのだが、印象はまるで違う。仕方あるまい、ただのガキだった。高校の修学旅行は九州。阿蘇山、う~む。宮崎、ふぅむ……。それから? 忘れている。

大学生。これは、逆に、覚えてはいるけれど話せないことが多くなる。ろくでもない旅ばかりだったし、ぼくのプライバシーだけではないからね。あっ、一人旅なら、いいか。2年生の夏休み、上野から夜行列車(もちろん寝台にあらず)に乗って、朝早く、金沢に着き、兼六園などを巡り……、いやいや、そこから先は書けないなあ、なぜって、連れができちゃったから。

社会に出たあとは、出張を含めれば、それこそ全国へ。空白県は沖縄と、あと2つ3つくらいでは。海外にも何度か。初体験は家族とハワイへ。23歳だったかな。これが、実は、その後の人生を大きく変えた。そして、次は、スーツケースひとつでアメリカに渡り、そのまま居住することに……。この話はもはや「旅」カテゴリーではないね。

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