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2011年9月11日 (日)

たかが数字

「9.11」。10年という節目ながら、この日のことを書くのは難しい。

テレ朝の「ニュースステーション」での、あの瞬間の映像の衝撃は、そうそう簡単に忘れられるものではない。3000人近くが犠牲になったという事実も、同様。もちろん、「1.17」の6000人、「3.11」の2万人のほうがショッキングではある。

数字の問題ではなかろう。こちらは「大自然」相手。あちらは「人間」、もしくは、その「業」か。比べるべきものではないような気がする。

いや、「べき」論ではない。幸い、と、あえて言わせてもらう、これら合わせて3万人の中に、ぼくの知友は一人も含まれていない。知人の親族に被災した人はいるし、先の先には命を落としたケースもあるだろう。「9.11」の影響で心を病んだ女性は、旧友の妻、よく知る相手だ。このブログの定期読者のなかには、多くを語らないので詳細は不明ながら、かの地に在住する人がいる。さぞかし、と思う。

でもね。こういう言い方は顰蹙を買うかもしれないが、タイトルにあるように、どれだけ悲惨な数字であっても、直接この身に火の粉が掛からない限りにおいては、単なる客観的な事実に過ぎない。

これが、もし仲のよい友が津波にさらわれていたら、それがたった一人だとしても、ぼくにとっては、極めて重い出来事になる。いきなり、主観的事実になる。

あの「9.11」について触れるのが厄介なのは、実は、そういうことで。その2か月前に、ぼくは、一つの身近な命を喪っている。その「マイナス1」が、ぼくにとっては大切で、意味を持つ。

だから、テレビから「あれから10年」という言葉が聞こえてくると、ぼくは「ウチも、あれから10年なんだけどね」と応じてしまう、胸の内で。「忘れない」なんて言われると、「うん、忘れるもんか」と。「この10年、何が変わったか」とか問われると、「そうだね、いろんなことが変わったよね、信じられないほど」。

そんなわけで、矛盾しているかもしれないが、この、まったく種類の異なる2つの出来事は、ぼくの記憶のなかでは、妙にシンクロしてしまう。一方は所詮、他人事なんだけど、どうにも、干渉し合う。情緒的には「風化」しているはずの遠い国の事件は、いまだ、生々しさを保持する。

蛇足。「周年」という呼び方、なんだか楽しい思い出みたいで、違和感がある。「記念日」にも。何か、もっと適切な表現は、ないものか。「メモリアル」だと、やや中庸な気はする。これの大和言葉って……。

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