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2011年7月

2011年7月28日 (木)

さよなら左京さん

我が敬愛する作家、小松左京氏が亡くなった。

80歳か……、新作を読む機会、もう何年も前からなかったので、その点では、惜しむとは言いにくいけれど、ちょっと早いよね。近影の痩せた姿からすると、長の患いだったのかもしれない。

小説家として間違いなくマイベストワン。大好きな短編『お茶漬けの味』については以前、ここで触れたが、『日本沈没』『復活の日』などのベストセラーはもちろん、ほとんどすべての作品が、若きぼくの心を魅了した。

一つひとつに言及する余裕はないれど。
長編『果しなき流れの果に』のプロット、複雑でしたね。主人公の教授、番匠谷の、バンショウヤ、って響き、いまなお耳に。ずっと映像化を欲しています。
『時の顔』も、何度も何度も読み直した。ぼくの、タイムパラドックス好きの原点でしょう。
日本SF大賞受賞の『首都消失』は映画化もされ、スケールの大きさは確か。でも、その起点である短編『物体O(オー)』のほうが好きです。結末が憎い。
同一系統の『こちらニッポン…』の冒頭シーン、ぼくの頭のなかでは映像化されています。
『見知らぬ明日』の当時は、中国って、ほとんど知らない国でしたね。
『戦争はなかった』は、ここでも書いたかな、その発想がスゴイの一言。『コップ一杯の戦争』もね。
あぁ、やっぱり、キリがない。

20年ほど前に、取材を通して、ようやく会うことができた。そのときの感激は忘れない。いまの当方と似たような年恰好、そう、太っていた。声も太めで、でも、やわらかかったように記憶する。

こういう表現、本来は好きじゃないんだけど……たくさんの、楽しい、面白い、わくわく・どきどき、興奮、衝撃、驚きの作品たちに、ありがとう。

合掌

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2011年7月25日 (月)

しばしのアナログ

「地デジ化」を意識したのは、5年前だったか。2011年7月なんか、相当に「将来(さき)」の話だと感じていた。当時、デジタル放送の普及率は低く、20~30%程度だったか、本当に完全移行できるのか、怪しんだ。

だいたい、地デジとは何か、知らない人のほうが多かったと思うし、いまも少なくないだろうし、自身、きちんと理解しているとは言わないけど、とにかくも、アナログ放送ではテレビが見られなくなる日というのが実感できなかった。

が、光陰矢のごとし、というのか、あっという間に、その瞬間がやってきた。カウントタウンするテレビ局もあったが、当方は、とっくに対応済みなので、さしたる興奮もなく。

ただ、キッチンに置き料理の際に観るくらいのアナログ機が、相方の指摘どおり、健在なのには少し感動。感動は、大袈裟か。でもね、「デジアナ変換」なんて言葉、聞いたことなかったもんなあ。

あぁ、ウチは、ケーブルテレビ経由で受信しているから、その「裏技」が使えるわけで。だから「チューナーを買う必要はないのよ」と半年前だったか相方に言われ、ホントかなと、ちょっぴり疑って、ゴメンよ、アイポー。

この措置、というのか猶予、3か月とか半年とかではなく、たしか15年までだから、あと4年も……。00年製なので、それまでには壊れるか。いや、メインに「アクオス」を購入後、ほとんど見る機会がないから、意外に長持ちするかもね。

そうそう、このアナログ機、このところオフのことが多くて気がつかなかったのだけれど、デジタル機との「時差」がなくなっていたのには驚いた。この時差については以前にも書いた。地デジ対応テレビを買ったときだと思う。圧縮したデジタル情報を解凍するのに2秒かかるとかで、その2秒ほど、ディレイするんだよね。

両機で同じ番組を見ると、わずかに遅れる。それが、何となく面白く思えた。ところが今回、「もうすぐ終わるよ」との表示をアナログ機で確認しようとしたら、あらら、ちゃんと同時に流れるようになっていた。つまり、すでに「デジアナ変換」が始まっていたわけなのだろう。

べつに、どちらがエライとかいうことではないだろう、デジタルとアナログ。ただ、テレ朝を相変わらず「チャンネル10」で見られるのって、なんか、愉快だね。

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2011年7月17日 (日)

コミュニティの一員として

先日、「町内会デビュー」(by 相方)した。ここに住んで8年、ついに、輪番により「自治会役員」を仰せつかったのである。うちのこのマンションは「第7班」らしく、その班長。前任者(もちろん、ここの住人のおひとり)の都合で引継ぎが遅れたので、年度初めの集まりには出られず、結果、いきなりという形になり、戸惑った。

正直、面倒だな、とは感じるが、大震災を経験したりすると、とくに、地域の大切さ、尊重すべきだよね、と、日曜朝の会合に、小生としては早起きし、顔を出す。毎月の役員会が前半に開かれることになっているようで、はい、修羅場に重なり、日曜日とはいえ休みではない当方、そのうえ夜型だし、けっこうツラい。「あらま、よく起きられたね」と相方からのお褒めの言葉、励みです。

出席してみると、会長氏は年配、あと2、3人もこちらより年上だが、全体で15人ほどの多くは30~40代とみられる若い人たちで、第一印象としては、びっくり。爺さん・婆さんばかりだと勝手に思い込んでいた。はい、かく言う小生もアラ還のジジィですから、考えたら、当然かな。会長さんも、もしかしら、ほんの数歳違いていどなのかも。

内容について、いくらなんでも守秘義務はないと思うので秘匿するつもりはないが、まあ、詳しく書くこともないか。(当方欠席の会合で)恒例の夏祭り中止を決めたが、昨今の電力事情からすると拙速だったかもしれないとの「反省」の弁らしきもの耳にしつつ、最も気になったのは、独居老人に配慮を、という呼び掛け。ふぅむ。

孤独死とか、不注意による火災とか、猛暑の夏の熱中症などなど、予備軍としては、もはや他人事ではない。地域として見守る、との姿勢、ありがたや。おいらには心強い「介護者」がいるけれど。

あとは、「オフレコ」が面白かった。「ここだけの話」と釘を刺されたので、その理由はわからないけど、さすがに公表できまい。が、地域のコミュニティと役所との関係が垣間見えた。このあたりのこと、いずれ、先達・翁と語り合いたい(と、書きつつ、なかなか面談の段取り、当方の怠慢ゆえ進めず、ご容赦ください=完璧に私信ですね)。

とりあえず、周辺に名前と顔を知る人、わずかでもできたことに、自己満足。

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2011年7月 7日 (木)

七夕の深夜に

そうか~、七夕だった。還暦間近。そんなファンタジーな気分とは縁遠くなった。

そのうえ、まだ梅雨明けは宣言されていないけれど、間違いなく真夏の暑さに焼かれる昨日きょう、朝から晩までの取材、疲労困憊気味で。10年前は3日間びったしだったが、いまは2日間が肉体の限界。

で、星たちの、一年に一度の逢瀬、うんうん、ロマンです。

そんなおり、久しぶりに、娘からのメール。いえいえ、「親孝行」とか「親娘仲睦まじく」などという言葉とは無縁の、けっこうプラグマティックな内容で。

どうやら、当方、義理の息子ができるようで。

「おめでとう」なんて言わないでね。とある事情により、本人たちにも、おそらく甘い香りはないのでは。まあ、順番が逆になったわけではないこと、それにはホッとしたのだけど……。

いずれ詳しく書くかも。いや、書かないかもね。

要するに。「彼」とは、どの言語で会話したらいいのか、まだ不明、ってな話でして。おそらく、スペイン語かなあ~、まったくわからん、だから、共通語は英語なのかも……。

いやはや。父親なんてものは……。報いでしょうか。いいえ、誰でも……。

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2011年7月 2日 (土)

十年ひと昔

10年を一区切りに振り返ると、これまで6つの「ひと昔」を重ねてきたことになる。最初の10年はほとんど覚えていないので除外するとして、記憶の対象としての10代は、まあ、子どもから大人への大きな階段で、あまりに多くのことがあったから、これも省こう。

20代は波乱万丈。
はたちの誕生日を一緒に迎えた女性は半ばで消え、20代ラストには、その10年前にはいかなる関係も存在していなかった女性と所帯を持っていた。当初は学生だった、が、社会に出て、そのあと留学、いったん学生に戻り、再び就職、憧れの新聞記者に、それも米国で。居住地も、東京都心から、下町の社員寮にしばし、そしてロサンゼルスへ。「未来予想図」はこの10年間でまったく違うものになっていた。

30代も大きく変化した。
帰国して3か月、30歳の誕生日は都心で女房と二人で祝い、みたびの会社勤め、都落ちし、埼玉県へ。子どもが生まれ、マンションを購入、最初のフリーランスに。バブル初期に売り払い、借家ながら事実上初の庭付き戸建てに引越し、フリーでは食えないと悟り、またもやサラリーマンに。1年に4回の海外取材、トータル30日あまりの留守。39歳の誕生日は、湾岸戦争2日目、アメリカの首都・ワシントンDCで。将来の見通し、不確かではあったけれど、マイホームを持って、とか、なんとなくファミリーとしての夢は追いかけていた、ような。

40代も同様。
40歳の誕生日は土曜日で家族と過ごし、同一県内で引越し、そのころから「単身赴任」状態(休みは日曜のみ、連日終電・ときおりタクシー帰宅)のモーレツ戦士に。半ばで、ついに「宮仕え」を諦め、会社を作り、さらに1年後、もうひとつ自分だけの会社設立、都心に事務所を構え、(母子)家庭を顧みず、いつのまにか小学生だった娘は女子高生に。49歳の誕生日は、その5日前の「血痰」の原因不明で診察結果を待つ不安のドン底。次の誕生日はあるのか……と。もっとも、「予測」はとんでもない方向で外れたが。

50代。
2002年1月の50歳の誕生日は、49歳での患いは幸いの結果だったが、元気が取り得のはずの伴侶が先に逝ったため、直前に我が名の本の出版という念願叶うも、(娘は居たけど)独りだった。にわか「センセイ」ブームも1年ほどで去り、お先真っ暗かと思えば、相方登場、都心のオフィスを引き払い、埼玉から千葉に移り、距離を縮めつつ、その娘もアメリカへ、独居老人(予備軍)ながら、悲惨さは薄く。とはいえ、父親が4回も死線を彷徨い、フリーながら「二代目」のような妙な立ち位置、こちらも女房が(つまり母親が)先立ち、親子そろってのヤモメ暮らし。59歳の誕生日は無事に迎えられたが、さて、半年後に迫る還暦は……。

10年。120か月。3650日余。約8万7600時間。いろいろなことがあるものだ。01年7月2日には想像だにしなかった「いま」を、ぼくは生きている。

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