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2010年2月22日 (月)

ニャンニャンには無関係

旧友と再会した。四半世紀ぶりである。待ち合わせの店で、互いに認識できるか、少し不安に思ったけれど、杞憂だった。あのまんま、加齢していた。当方も、だったろう。

5時間あまり話をして、このタイムラグを、なんとか埋めた。まさに、時間旅行のような、不思議で、エキサイティングなひとときだった。

当然ではあるけれど、ぼくにも、いろいろなことがあったが、5歳年下のかれも、実にさまざまな経験を積んでいた。
そのパーソナル・ヒストリーを、勝手にここで詳らかにはできないが、ぼくのプロファイルと、どこか共通点があるとも言える、そんな半生。いや、あちらのほうが、より厳しい人生かも……。
でも、そこそこ平常心で言葉にできる程度には、二人とも、なっていた。

アメリカ時代の、勤め先の新聞社の、かれは営業職、こちらは編集で、小さな会社とはいえ、普段はあまり接点がなかった。
だけど、一時期、同じアパートに偶々住んでいたり、どちらも留学の流れだったり。かれは高校からで、英語力は叶わなかった、もっとも、日本語では、ね……。
大阪出身で、見事なまでのベタベタの関西弁、それが、可笑しく、妙に懐かしく。相変わらずのイントネーションで、いつのまにか、こちらも感化されていた。

30年前。たしかに、若かった。いずれも20代。週末は、よく互いの部屋に行き来して、飲んだり、食べたり、歌ったり。いろいろなことを思い出す。でも、ま、ただの懐古趣味は、読む側には、つまらないよね。

ちなみに、タイトルのとおり、きょうの話は「22.2.22」には何の関係もない、のではあるが……、そういえば、「ニャンニャン」かぁ~、懐かしいなあ……、と、思わせぶりなことを呟きながら、でわでわ。

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コメント

二十五年一気に飛びし春日和

若き日の話語りて越えてきた山脈(やまなみ)思い心新たに

清愚合掌

投稿: seigu | 2010年2月23日 (火) 11時06分

翁に負けじと、ひねもす呻ったのですが、詠めません。悔しいなあ~。

かれが日本に帰国したのは1981年の初頭だったようです。
「よう」とは曖昧な話ですが、当時の日記は手元になく(つけていたのかどうか、それも記憶の彼方)。
ただ、その年の3月にロサンゼルスで、こんな曲を作っていることが、ぼくの「創作ノート」で判るのです。
在米時代、親しい友達が帰国すると、名残を惜しむ気持ちからでしょうか、よく曲作りしていました。Aさん、Bくん、この二人のために作ったものは、けっこうエエやんか、との自負あり。
もっとも、このかれのときは、送る者の数がもうかなり減ってしまっていて、あまり歌う機会がなかったためか、メロディラインは、はっきり覚えていません。もともと、楽譜が書けず、ギターのコード進行しか記していないせいもありますが。

タイトルは「関西人の君へ」
(一部抜粋)
久しぶりの日本はどうですか
とまどってはいませんか
あんまり英語を使いすぎると
アメリカナイズとか キザなやつだとか
でも○○くんなら きっと大丈夫
アメリカに8年もいたくせに
そやけど とか うちとこ とか
君は関西人

投稿: hiperk | 2010年2月24日 (水) 05時50分

曲を作られていたとは知りませんでした。
これから今一度、いかが。
老齢期を前に埋蔵資源掘り起こして備えられたら。
鶴見和子先生が、脳内出血して若き頃の歌詠みが奔出したとして、若き頃の「埋蔵資源」が大事だというのです。
では、では。合掌

投稿: seigu | 2010年2月25日 (木) 16時13分

ぼくの作曲の「才」は、ごくごく小さなものだったらしく、1970年代後半にすべてを使い切ってしまったようです、翁。でも、ひとつくらいは世に出したいとの欲求は、いまなお持続していて、年に2、3回は掘り起こし、また埋めて、の繰り返し。このところ身の回りがなにやら音楽づいてきて。。。次項で、ちょっと回顧してみます。

投稿: hiperk | 2010年2月25日 (木) 23時38分

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