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2010年2月26日 (金)

音楽との出合い②

カナダにおける日韓対決なんぞに見向きもせず、昨日の続き。

わざわざ音楽的環境に触れたのには理由(わけ)がある。

ぼくは、小学校4年間、学校で音楽を習わなかった。教科として無かったのである。私立だったので勝手なカリキュラムを組めたのだろう。昭和30年代のことだから、いまでは無理かもしれない。

で、5年生から公立へ(その私立を「放校」に遭った話は以前書いた)。生まれて初めて、音楽という授業に出合った。子どものレベルだが楽譜が読めず、つまり唱歌が歌えず、ドレミのドすら知らず。何にもわからない状態だった。

両親が焦った。自慢の一人息子の主要4教科に問題はまったくない(結果、2年の間、学年ベスト3に常駐した)。図工や体育は受験には不要と無視。なのに、どういうわけか、音楽にだけは、こだわったようだ。

ピアノを習うことになった。これまた触れたことがあるけど先生はその世界で著名な女性。そんなに期待されても困るのだが、厳しかった。10歳になってからのチャレンジである、出来は悪かったに違いない。「バイエル」に悪戦苦闘の日々だった。楽しい思い出とは断言しにくいが、でも、好きだった。何とかついていった。

レッスンを休みたいと思った記憶はない。当たり前? いや、だって……、他の生徒は、未就学児でも当方より高等のレベルに達していたし、同じくらいの年齢なら信じられない指の動きだったし、だいいち女の子のほうが圧倒的に多かった。いまのぼくではないのだ、まだローティーン、思春期の入り口、恥ずかしいという気持ちはあった。

中学受験という状況にならなかったら、もっと続けていただろう。「ソナチネ」の直前でやめたけれど、そこそこ手は動いたし、オルガンを購入していたから、練習という名の努力は惜しんでも、楽しみとしてなら遊びもした。

ほとんど自問自答だが、要するに、ギターの登場前、そして登場後も、鍵盤には馴染みがあった、と思うのである。

でも、ピアノで曲を作ったことは一度もない。ぼくの「作曲人生」は在米時代の数年間に限られるからでもある。

アメリカへ渡ってから1年もしないで、ぼくはギターを買った。最も手軽な楽器だったわけで、おそらく、そのころの財布の状態からして、10ドル+αかな。ほんの少しだけ割引してもらったことと購入店は、はっきりと覚えている。「まけてくれ」を、ただひたすら「ディスカウント!」と繰り返したことも。

周囲には貧乏留学生ばかりで、ギターは格好の娯楽だった。財政的に外食は難しく、ちょっとリッチな友達のクルマで遊びに行くのも、せいぜいがビーチで無邪気に水と戯れる程度。金を使っての楽しみは、なかなかね。で、誰かのアパートへ押しかけ週末をビールとつまみ少々で過ごす、といった具合。そんなとき、ぼくの安ギターは最強だった。

そんなおり、仲間の一人が日本に帰ることになった。前述のAさん、とくに親しくしていた女性ではないのだけれど、『去りゆく貴女に』という曲を作った。77年6月。仲間内とはいえ、けっこう好評で、その後、機会あるごとに何回も披露しては喝采を浴び、内心でニヤけていた。もちろん、いまでいうカラオケに興じるような、遊びの域を一歩も出ていない。

そして、この年の暮れ、前述のBくんに出会い、ぼくの怒涛の曲作りが始まるのだが、号外が出る世の中の動きなんか、どこ吹く風、あぁ春一番だったらしいけど、そんなこととは無縁に、この話、まだまだ続く。

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