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2010年2月

2010年2月28日 (日)

音楽との出合い④止め

人の歴史に「if」を言い始めたらキリがないことは重々承知している。たとえばもし、あの年齢規定がなければ4年前に金メダルに輝いていたかも、と考えるのは自然だろう。そんな仮想は詮無いことなんだけど。それでも、自らの人生だからね、ついつい妄想してしまう。

ぼくは、ピアノを習い始めた10歳のころ、ジャーナリストになりたいとか小説を書きたいとか、そんな野望を全然持ち合わせていなかった。もしも、中学受験なんてことをせず、あのまま続けていて、勘違いでもいいから、音楽で身を立てよう、なんてことを思いついていたら……。なにしろ、先生はその世界の第一人者だったしね。

中学・高校生のときに作った曲が、もしも、誰か専門家の耳に達していて、ほんのちょっとでも「原石」かもしれないと唆され、そっちの道に進んでみたら面白そうかもと錯覚していたら……。実際、高校の同級生の佐藤クンはケメとしてデビューしたしね。

帰国後に結婚したのち一度、ロサンゼルスに遊びに来たこともあるAさんとは、ぐるみでのつきあいが続いていたが、最近は疎遠に。彼女は、記念すべきぼくの曲を覚えているだろうか。もしも、配偶者が音楽業界の人だったら……。

いわゆるインディーズで(CDは未だなかったから)ミュージックテープを出したCくんは、残念ながらメジャーデビューとはならず、いまは無縁の仕事に就いているらしい。かれの手書きの詞は、ぼくの「ノート」のバインダーに綴じられている。もしも、かれが芽を出していたら……。

先日の5時間トークのなかでは確認しそこなったが、Dくんは、おそらく自分を送る歌の存在を忘れているのではないか。その曲が、作曲者としてのぼくの事実上のラストソングであることは、もちろん知る由もない。もしも……、うむ、ここは無理だな。

でも、Bくん、かれは、音楽の世界にコネクションがある。若いときのノリではあっても「これ、意外に売れるかもしれへんでぇ~」と言ってくれていた。もしも、その言葉を真に受け、ジャーナリストよりもミュージシャンだ、と「大英断」していたら……。まだ、20代だったんだもの、方向転換はアリだったかも。

なにはともあれ、しかし、この現実である。女性との出会いなら、いささかでも「運命だ」と思える感性に自信はあるのだが、音楽との出合いには結局、淡白だったのかな。

ところが。ここでも書いてきたように、ここ1、2年、なんだか妙に音楽づいている。そもそも、妹は明らかに音楽関係者だし、親しい知人がCDのプロデュースに進んでいるし。

そして、Bくんは一昨年、生活拠点をニューヨークから東京に移した。何度か会ったりメールしたりしているのだが、大変うれしいことに、「あの曲、なんとかしようよ」と。かれは、採譜ができる。つまり、コード進行と詞のみの原型に過ぎないものを、作品にすることが可能なのである。

わが師、seigu翁にも、老齢期を前に埋蔵資源を掘り起こしてみたら、と貴重なアドバイスをいただいた。

ふうむ。出会いはあり、「友達」にもなったが、たぶん「友達以上」なんだろう、でも、「恋人未満」ということなのか。「アラ還」にして、惑う。

半端なままだが、ひとまず終わる。

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2010年2月27日 (土)

音楽との出合い③

男女3人の6人全員入賞こそ快挙で団体戦があったら間違いなく金(メダルのことね、キムヨナではない)だと相方はコーフンするが、ぼくはフィギュアに興味がなく、淡々と話を続けよう。

1977年の、たぶんクリスマス・イブの夜。ぼくのアパートで仲間たちと盛り上がっていた。ちょっとだけ脱線するが、貧乏留学生ではあったけど、ロサンゼルスでは広い部屋を格安で借りられる。前にも書いたかな、室内でフリスビーができた。幹線道路沿いでもあり、けっこう騒いでも苦情はこない。

そんな、パーティの最中、友達の友達が日本からやって来た。これがBくん。正直、第一印象はよくなかったんだが、以来、33年か、つきあいを続けているのだから、人生って面白い。(えっとぉ、何人かの定期読者氏、最近紹介したKくんのことですよ)

さておき。かれは、ある有名なフォーク・シンガーの付き人みたいなことをしていた経験があり、実は「ゴースト」みたいなこと、つまり本当はかれの作った曲なんだが、世にはそのシンガーの名前で、というやつね、そう、ギター弾きだったのである。その夜、かれは腕前を披露したはずで、ぼくも、隠れた名曲を聴かせたに違いない。

おまけに関西人だった。関係ないか、いや、否めないと思うなあ~。たちまち意気投合し、その後の3か月間、一緒に曲作りした。正確には、ぼくが作ったものを聴かせながら感想を求め、かれのアドバイスにより整えていった、という感じかな。

かの「創作ノート」にしたがえば、15曲目の『悲しみのジェットプレーン』には、ついに作詞としてかれの名前が記されている。共作と呼ぶほどの共同作業ではないかもしれない。けれど、かれの存在にインスパイアされて、ぼくの作曲衝動が噴き出したことは間違いない。

そして、16曲目が『3月22日水曜日』。かれが帰国した夜に作った。タイトルそのまんまのその日の朝、観光ビザだったかれは90日間の滞在を終え、日本へと戻っていった。もちろん詞はデフォルメされているけど、短期間だが濃密な時間を共有した友への、惜別の歌である。

これは、ぼくの全作品(ざっと30曲かな、メロディを覚えていないものも含めれば40曲強)のなかでもトップクラスの出来だと自負する。ちなみに、作詞は、そのころは友達でしかなかった女性、2年後にはカミさんになる。この3人でよく遊んでいた。

怪我の治療(リハビリ)がロサンゼルスにやってきた理由だったBくんは、かの地の温暖な気候に魅了され、1年2か月後、金を貯めて、再渡米する。それまでの間に、ぼくは、英語の勉強を一区切りさせ、アルバイトを経て、新聞記者として就職するのだが、さらに多くの曲を作っていた。

もはや時間的流れは曖昧だが、その年('79)、またまた友達の友達に出会う。便宜的にCくんとしよう、プロの歌い手志望だった。ボイス・トレーニングといっていいのかな、とにかく歌の勉強で渡米、Bくんも含め、よくセッションした。

このブログ「旧友再会」で登場の関西人、Dくんとする、かれとも職場で知り合っていて、当時のカノジョが歌のうまい女の子だったから、音楽の輪は、なおいっそう広がっていく。

とはいえ、すでに、ぼくは、憧れの新聞記者として、活字の世界で生きることを決めていた。

音楽との出合いは、それなりに違った未来を描き出す可能性を秘めたものではあったかもしれないけれど、ここまでの結果としては、趣味の域を出なかった。

でも、これからは? ふむ、どうなんだろう……。(次回で完結の予定、たぶん)

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2010年2月26日 (金)

音楽との出合い②

カナダにおける日韓対決なんぞに見向きもせず、昨日の続き。

わざわざ音楽的環境に触れたのには理由(わけ)がある。

ぼくは、小学校4年間、学校で音楽を習わなかった。教科として無かったのである。私立だったので勝手なカリキュラムを組めたのだろう。昭和30年代のことだから、いまでは無理かもしれない。

で、5年生から公立へ(その私立を「放校」に遭った話は以前書いた)。生まれて初めて、音楽という授業に出合った。子どものレベルだが楽譜が読めず、つまり唱歌が歌えず、ドレミのドすら知らず。何にもわからない状態だった。

両親が焦った。自慢の一人息子の主要4教科に問題はまったくない(結果、2年の間、学年ベスト3に常駐した)。図工や体育は受験には不要と無視。なのに、どういうわけか、音楽にだけは、こだわったようだ。

ピアノを習うことになった。これまた触れたことがあるけど先生はその世界で著名な女性。そんなに期待されても困るのだが、厳しかった。10歳になってからのチャレンジである、出来は悪かったに違いない。「バイエル」に悪戦苦闘の日々だった。楽しい思い出とは断言しにくいが、でも、好きだった。何とかついていった。

レッスンを休みたいと思った記憶はない。当たり前? いや、だって……、他の生徒は、未就学児でも当方より高等のレベルに達していたし、同じくらいの年齢なら信じられない指の動きだったし、だいいち女の子のほうが圧倒的に多かった。いまのぼくではないのだ、まだローティーン、思春期の入り口、恥ずかしいという気持ちはあった。

中学受験という状況にならなかったら、もっと続けていただろう。「ソナチネ」の直前でやめたけれど、そこそこ手は動いたし、オルガンを購入していたから、練習という名の努力は惜しんでも、楽しみとしてなら遊びもした。

ほとんど自問自答だが、要するに、ギターの登場前、そして登場後も、鍵盤には馴染みがあった、と思うのである。

でも、ピアノで曲を作ったことは一度もない。ぼくの「作曲人生」は在米時代の数年間に限られるからでもある。

アメリカへ渡ってから1年もしないで、ぼくはギターを買った。最も手軽な楽器だったわけで、おそらく、そのころの財布の状態からして、10ドル+αかな。ほんの少しだけ割引してもらったことと購入店は、はっきりと覚えている。「まけてくれ」を、ただひたすら「ディスカウント!」と繰り返したことも。

周囲には貧乏留学生ばかりで、ギターは格好の娯楽だった。財政的に外食は難しく、ちょっとリッチな友達のクルマで遊びに行くのも、せいぜいがビーチで無邪気に水と戯れる程度。金を使っての楽しみは、なかなかね。で、誰かのアパートへ押しかけ週末をビールとつまみ少々で過ごす、といった具合。そんなとき、ぼくの安ギターは最強だった。

そんなおり、仲間の一人が日本に帰ることになった。前述のAさん、とくに親しくしていた女性ではないのだけれど、『去りゆく貴女に』という曲を作った。77年6月。仲間内とはいえ、けっこう好評で、その後、機会あるごとに何回も披露しては喝采を浴び、内心でニヤけていた。もちろん、いまでいうカラオケに興じるような、遊びの域を一歩も出ていない。

そして、この年の暮れ、前述のBくんに出会い、ぼくの怒涛の曲作りが始まるのだが、号外が出る世の中の動きなんか、どこ吹く風、あぁ春一番だったらしいけど、そんなこととは無縁に、この話、まだまだ続く。

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2010年2月25日 (木)

音楽との出合い①

なにやら大層なタイトルだが、前項のコメントを書きながら、振り返ってみた。

この世代の多くと同様だと思うが、GS(グループサウンズ)やフォークソング(当時はまだ洋楽)の流行に影響され、中学2年のときだったか、ギターを買った。小遣いを貯めての予算2000円だったと思うので「マーチン」「グレコ」なんてまさに高嶺の花、安い無銘のクラシックギターしか選べなかった。

で、これも常道、「禁じられた遊び」とか、PPM(ピーター・ポール&マリー)、ブラザーズ・フォア、キングストン・トリオなどにトライ、「パフ」「七つの水仙」「花はどこへ行ったの」「500マイル」「風に吹かれて」といった歌をブンチャカブンチャカ勝手に弾き鳴らし(喚い)ていた。

アルペジオ奏法を会得できず、歌唱力についても才能のなさを痛感。ただの趣味の域を出なかったのだけど、中3で初めて曲を作った。そのころの流行り、加山雄三のマネだった。出だしだけはボンヤリ覚えているが、記憶にしか残っていない。

前述した「創作ノート」(という名称ではないが便宜上そう呼ぶ)のトップページは、高校2年生('68)のときに作った『一人旅』。コード進行が記されていて、いまなお歌える。「彼の荷物は小さなトランク一個と一本のカサ・・・」という、ま、失恋ソング。このころは、失恋なんて日常だから、どんな背景があったのか、特定できない。男子校だったから、友達の友達の女の子を紹介されたけど「グループ交際で」とか言われ、つまりやんわりと断られた、程度だろう。

さて、時代は、あの60年代後半、政治の季節だったから、反戦歌を叫びながら、新宿西口広場に行ったり、べ平連のデモに参加したり。軟弱な(^-^;歌作りは打ち止めにした(みたい)。

記録上の2曲目は、それから約10年後のこと、すでに渡米していた。向こうでも安いギターを購入し、何の気紛れか……。

そこへいくまえに、ふと自問。たしか自宅にはオルガン(のちにピアノ)があったはず。これは、利用しなかったのだろうか。

何故そんなことを考えるかというと、ぼくは小学生の5年から6年までの2年間、ピアノを習っていたからだ。そして、これは以前にも書いたが、中学に入ってから観た『サウンド・オブ・ミュージック』に激しく心を動かされもした。

ついでながら、妹もピアノを習い始め、こちらは永続し、音大を経て、いまや先生であり、音楽スクール経営という立場にもなった。さらにば、わがオフクロは生前、カラオケをこよなく愛した(伝聞)。しつこく言えば、娘は大学で音楽を専攻、母親譲りの絶対音感の持ち主でもある。戦争世代のわが父は「戦友」以外はまともに歌えないけど、でも、ステレオは結構早くに買っていて、よく李香蘭や森繁を聴いていたようだ。

自らのギターとの出合いから話を始めたけれど、思えば、音楽的環境は、そこそこあった、ということなんですね。(いつものごとく長くなってきたので、次回へ)

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2010年2月22日 (月)

ニャンニャンには無関係

旧友と再会した。四半世紀ぶりである。待ち合わせの店で、互いに認識できるか、少し不安に思ったけれど、杞憂だった。あのまんま、加齢していた。当方も、だったろう。

5時間あまり話をして、このタイムラグを、なんとか埋めた。まさに、時間旅行のような、不思議で、エキサイティングなひとときだった。

当然ではあるけれど、ぼくにも、いろいろなことがあったが、5歳年下のかれも、実にさまざまな経験を積んでいた。
そのパーソナル・ヒストリーを、勝手にここで詳らかにはできないが、ぼくのプロファイルと、どこか共通点があるとも言える、そんな半生。いや、あちらのほうが、より厳しい人生かも……。
でも、そこそこ平常心で言葉にできる程度には、二人とも、なっていた。

アメリカ時代の、勤め先の新聞社の、かれは営業職、こちらは編集で、小さな会社とはいえ、普段はあまり接点がなかった。
だけど、一時期、同じアパートに偶々住んでいたり、どちらも留学の流れだったり。かれは高校からで、英語力は叶わなかった、もっとも、日本語では、ね……。
大阪出身で、見事なまでのベタベタの関西弁、それが、可笑しく、妙に懐かしく。相変わらずのイントネーションで、いつのまにか、こちらも感化されていた。

30年前。たしかに、若かった。いずれも20代。週末は、よく互いの部屋に行き来して、飲んだり、食べたり、歌ったり。いろいろなことを思い出す。でも、ま、ただの懐古趣味は、読む側には、つまらないよね。

ちなみに、タイトルのとおり、きょうの話は「22.2.22」には何の関係もない、のではあるが……、そういえば、「ニャンニャン」かぁ~、懐かしいなあ……、と、思わせぶりなことを呟きながら、でわでわ。

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2010年2月19日 (金)

南先生

きょう(2月19日)付けの朝日新聞「ひと」欄に、ここでも触れた、『生きていくための短歌』の著者でもある、県立神戸工業高校の国語教諭、南悟先生が登場。

ただそれだけのことなんだけど、うれしいな。ぼくのブログで紹介しても影響力はないけれど、朝日に載れば、この本の売れ行きのみならず、夜間定時制の統廃合に異議を申し立てている南さんのアピールにもメリットがあるだろう。

日の丸に 沸き立つ民に 異議はなし されどここにも 金メダリスト

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2010年2月15日 (月)

ドレスコード

イヤな世の中だ。
できれば明るい話題を書きたいと思って、いろいろネタの思案をしていて、でも、グチっぽい話ばかりなので、どぉしよかなあ~と、ためらっていたのだが、やっぱり取り上げよう。どうせ、ここの読者には「独尊オヤヂらしいカミツキ」と言われるのだろうけれど。

ついに、スポーツ競技のひとつにまで「品格」が問われる時代になった。もちろん、オリンピックという舞台で「日の丸」を背負っている状況ではあるけれど、だからといって、ここまでヒステリックに反応する必要があるのか。

相撲の場合は、「道」という言葉が付いていて、とりあえずは「国技」だとすれば、横綱としての品性が求められるのも、まあまあ理解できる。納得できない部分も多いが、あちらは「犯罪行為」に絡んでいたし、かつてのボクシングの事例は明らかな反則行為だった。

でも、たかが服装じゃないか。それも、スノボー。五輪に相応しいアイテムかどうかアヤシイのに、「ヤング層へのアピール」とかで、つまり人気取りで加えたという、そもそもイヤらしい思惑すら感じる。そのなかでの、若造のツッパリにすぎない。「強制送還」までチラつかせるとは、とうてい看過できない。

念のために。ぼくも、あの格好は好きではない。街中で見かけるに、不愉快である。今回のケースでは、公の存在による公の場での「無礼」だと認識する。

しかし、「国費を投じている」「代表選手だから」「スポーツマンらしくない」との批判の大合唱は、大袈裟だ。そのうえ、入村式や開会式を「自粛」させるなんて、大人気ない。内部で「厳重注意」すれば済むことではないか。

もちろん、個人のレベルで、居酒屋で、社内の井戸端会議で、「だらしない」と非難するのは自由だ。ぼくも、そうする。

だけど、選手団側だって当初は、問題視していなかったはず。着崩したままでテレビカメラの前に立たせたのは誰だ? 監督なり周囲の「おとな」は注意しなかったのだろう。なぜ? マズイとは思っていなかったからに違いない。

なのに、ちょっと抗議されただけで、ヘナヘナとなる。あんな半端な会見(初回のもの)をするものだから、バッシングを受ける。過剰に反応する。メディアが大きく報道する。もはや引っ込みがつかない。選手団長まで登場、謝罪会見となる。「責任」なんて次元に発展してしまう。

繰り返す。あの若者は非常識である。監督責任のある者がバカヤロウと叱るべきである。だが、「事業仕分け」まで持ち出し、応援会が中止になるような「騒ぎ」にしてはいけない。

「尻馬に乗る」ことが風潮になってしまった、情けない渡世は、生きにくい。

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2010年2月10日 (水)

あとひとつき

立春が過ぎ、名のみの春、きょう(9日のこと)は一瞬、リアルになったが、まあ、まだ2月だから、いましばらくは寒いに違いない。

「異常気象」という言葉は軽々しく使いたくない、同時にあっさり否定するのも適切ではないと思うけれど、地球環境の観点では、たしかに良くない方向へと向かっているのだろうが、当方の住環境においては、冬は寒いし、夏は暑い。

その冬にも暖かな日はあるし、夏にも冷える日はある。一喜一憂しても、はじまらない。どうせ、あと1か月もしたら、相方の誕生日である。って、何の関係も無いけれど。

それにしても、マスメディアのマッチポンプ、褒めたと思えば貶し、非難の舌の根も乾かぬうちにタイコモチしてみせたり、何とかならないか。いや、それが本質だと承知しているけれど、でもね……。そろそろ、その節操のなさに嫌気がさす、というか、末席につながる者として、なんかヤバイ気もして。

どうせ、今週末からは「オリンピック一色」なんだろうなあ。バンクーバー在住の知人は「個人的には盛り上がっていない」と。もったいない。けど、そういうものなんだよね。現地よりも我が祖国のほうが騒がしいのは、いつものこと。

ロサンゼルスに住んでいたころ、日本から遊びに来る人間のほうが、メルローズの何とかいう人気の店に行きたい、とか、どこぞのハンバーガーが美味いのだ、とか、やたら詳しかったことを、ふと思い出す。

まとまりのない話になった。ようやく、修羅場を脱しつつあり、アリバイ的な日記。ご容赦。

更新を マメにするぞと 明言も しょせん公約 ただの意気込み

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2010年2月 1日 (月)

初雪や~

Photo

2月になった、そのとたん、初雪である。
なんだか、浮かれる。
東北在住のzunさんあたりには、なにをいまさら、どころか、喜んでいる場合ではなかろうとの指摘も受けてしまうかな。
でも、首都圏では昨今、めっきり見なくなってしまった銀世界、ご容赦。

子どものころには、それほど珍しくはなかった雪化粧。長じるにつれ、どんどん頻度が減ってきて、いまでは、そう、希少価値である。もちろん、それでもシーズンに一度は経験するのだが。
めったにないことだけに、いったん積雪があると、交通網のダメージは大きく、慣れぬ人たちは、あっさり転んでしまったり。ま、今回はマヒという事態にはならないようで。

若い時代には、同世代の異性たちとスキーやスケートに興じた記憶もあるけれど、総じて苦手な領域。

ただ眺めるだけの雪景色は、楽しい。

初雪や モンゴル全盛 角界に 改革ありや 貴乃花理事

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