« 巨星墜つ | トップページ | 本日発売 »

2009年11月30日 (月)

「ふたり」

女性を愛せない、恋に臆病な男が増えているらしい。その逆もありで、異性とのつきあいがメンドー、とか、煩わしい、とか。
その感覚、もちろん全否定はしない。
そもそも人間関係なんて、いまも昔も面倒だろう、とくに現代では複雑怪奇。理由無く人を殺す輩がいる時代、他人に関わるのが嫌でも、そんなに不思議じゃない。
恋愛ともなれば、さまざまな要素が絡み、流動的というのか可変数が多すぎる。マニュアルも、実際には役に立たないしね。たいがいは、思い通りには進まない。
結婚の二文字が見えてくると、当人同士を超える利害も生じる。
確かに、コトは単純じゃない。

犬猫のほうが、よほどカワイイ。それも、わかる。
言葉を話さないから、憎まれ口も叩かないし、「わたしのことを愛しているか」などと詰問もしない。お節介な親戚もいない。犬のストーカーは、いまい。いても、許せる気がする。マザコンの猫も、まあ、騒ぎ立てることはない。ともかく、自然に親身の愛情を注げるというもの。

飼育すら厄介なら、ぬいぐるみやフィギュアがいい。もはや、おなかがすいたと吼えることもないし、下の世話も不要。病気もしないし、不妊手術の必要もない。もっとも、洋服代は掛かるみたいだが。なにしろ、口ごたえしない。こちらの思うままだ。

なんにしても、生身の人間は、一筋縄ではいかない。
でもね、ぼくには、だからこそ、楽しいんだけどなあ~。
予測のつかないことがあるから、おもしろいと思うんだけどなあ~。

『ラースと、その彼女』という映画を観た。対人関係を築くのが下手な主人公、やっとできたカノジョは、人形だった、それも、さすがの当方も書くのが恥ずかしい、大人のためのドール(察してネ)、という、下ネタ満載の喜劇かと思えば、これが、ちょいとアレでね。
コミカルなシーンは多いものの、この人形を恋人の女性として紹介するラースに対して、アメリカの片田舎の人々は優しく、「アブナイ奴」とは非難せず、その妄想につきあう。何だか、コミュニティのパワーを感じさせる。
さておき、周囲が認知してしまうと、ただの怪しげな(妖しげな)人形が、大袈裟な言い方すれば、人格を持ち始めるのだ。「カノジョにボランティアしてもらいたい」との申し出に「二人の時間が無くなってしまう」と駄々をこねる主人公だが、誰もが人間扱いするようになると、リアルな人間であるかどうか、どうでもいいことに思えてくる。

監督の思惑がどこにあるのか、よく知らないし、ことさら言及するのはやめるが、ラストシーン近くでは、ほとんど哲学的な「妄想」に囚われてしまった当方。これは、ほんとに、人形なのか……。言葉を話さないが、歩かないが、食事を摂らないが、しかし、病を患った結果、そのような状態の人は、珍しくない。

皆が人間として認めたら、人形も人間と化す。では、人形と人間の境は、どこにあるのだろうか。

さて、反対に、誰の賛同も得られなければ、本人がいかに主張しようと、人形は人形のままである、のかな。

実は、拙宅には、2体のぬいぐるみがいて、こいつらとはもう30年のつきあいで、もちろん名前もあって、ぼくは、まるで生き物かのように接していて、相方の失笑を買っているのだが、どんなに古びても、捨てるなんて選択肢は考えられず、我が棺に入れてもらいたいと思う(ここでまた嗤われる)ほどに執着している。

ぼくは、べつに人嫌いじゃないし、むしろネットでも電話でもリアルでも語り合ったりするのが好きだし、とくに女性は生身にかぎると思うし(相方頷く)、フィギュアには特段の興味はないけれど、この「ふたり」は別格だ。

こいつらには魂が宿っていると信じて疑わない。

おかしなカミングアウトと映画と、いったいどう関係するのか、よくわからなくなってきたので、もうじき師走だし、このへんで。

|

« 巨星墜つ | トップページ | 本日発売 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 巨星墜つ | トップページ | 本日発売 »