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2009年8月23日 (日)

官僚たちの夏

そもそもは、夏ドラマのなかでは最も注目の「官僚たちの夏」の初回で少し感じるものがあったので、そのあたりのことを書こうと思ったのだが、とりあえず2、3回は観ないと一方的になるかな、と、「夏」にちなんでのネタを挟んでいたら、なんとなく、時機を逸した、かも。

低視聴率(10%前後とか)が表すように、やはり、期待外れだと思うのは当方だけではないようだ。暑い夏に相応しくないのは承知の、熱いドラマ。いや、あまりにアツすぎる。そこに、どうしても違和感が拭えない。さらには、近過去ものの難しさ。「結果」を知る立場の評は当然、厳しくなるはずだが、そのハードルの高さを越えるだけの驚きがない。残念。

構造的には幕末もの、戦国時代ものも同様なのだけれども、その時代に生きていた視聴者はもういない。明治ももはや完全に歴史の彼方であり、だから史実を多少逸脱しても許される。いや、戦国武将など、どうあがいても言葉遣いをはじめ正しくは再現できないのだから、想像の羽を思い切って広げるほうが、楽しい。
蛇足ながら「天地人」はあまりにも現代的「愛」に拘りすぎて、逆につまらない。山本勘助のときもそうだったのだが、主人公の「人間性」やら「偉業」についての自由度が低すぎる。織田信長が果たしてどれほどの「革命家」だったのか、いささか疑ってしまうこともあるけれど、常に魅力的に描かれるのは、つまりはスゴイやつだったのだろう、そう思い込める。実際、兼続に比べ謙信やら秀吉のほうが、よほどアピール度が高い。俳優の力? それを言っちゃ……。

さて。「官僚たちの夏」の舞台は戦後であり、記憶に新しい。ある種のドキュメンタリーでもある。さほど脚色できないのは、理解できる。が、そこをうまく処理するのがドラマ制作に関わる人間の腕の見せ所ではないのか。せっかく役者が揃っているのに、ドラマチックではない。非常に優れた「再現ドラマ」とでも言おうか。
ただただ熱く天下国家を論じられても、それが原作どおりだとしても、感情移入できない。なぜなら、ぼくらは今、「国内派」の保護政策のツケを支払っているからだ。同時に、「国際派」の言い分にも素直に頷けない。昭和30年代に市場開放していたら、その後の奇跡の高度成長がありえなかったかもしれないと知っているからである。

そのうえに、たしかに、無私の官僚が存在したし、あのころの志は高かったと回顧することはできるけれど、それらがすでに単なるノスタルジアであることも、高級官僚の汚職・天下りが珍しくなくなった今日、認めざるを得ない。俗っぽくいえば、「三丁目の夕日」に代表される、センチメンタルな「ないものねだり」だ。

城山三郎は1970年代前半にこれを書いている。昭和40年代。私見ながら、かろうじて「戦後」だった時期である。しかし、もはや21世紀、平成の世も21年が過ぎ、そう、平成生まれの有権者がでてきているのだ。政権交代前夜の、こんな時代に、エリート官僚たちの熱い姿を描かれても、ついていけまい。

ドラマ化の時機を逸した。

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