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2009年5月

2009年5月31日 (日)

人は裁けない

裁判員制度が始まりましたね。ジャーナリスティックな好奇心から、高い関心をもっています。と書くと、「あなたは、人を裁けるのか」との声が聞こえてきそうですが、いやなに、ぼくが人を裁くことなんてできるはずもなく。そのつもりで法廷に行くつもりなどありません。

導入発表当初、一般人に「裁けるのか」とか「死刑判決を言い渡せるのか」といった問いかけが多かったように思います。その結果、「回避」の条件が喧伝されていて、たとえば、ナンバーワン・キャバクラ嬢なら「余人をもって代えがたい」から拒否OKだとかね、そんな後ろ向きの話ばかりでしたね。

だけど、そんなことより、裁判員になる人が、ワイドショーやら夕刊紙やら、無責任で情緒的な報道の悪影響をどれほど受けているかいないか、そのほうが大問題だと思います。人って、基本的に、理性を保つことは大変難しく、感情に流されやすい。それは、言わずもがなでしょう。

ぼくは、相当に理性的な人間だと自負します。でも、ときおり、当たり前ですが、感情を爆発させます。それは、我が相方が証言するでしょう。残虐な殺人事件の審理を目の当たりにして、その暴発を自制できる自信などありません。

所詮、人には人を裁くことなんか無理だ。そう思います。だから、裁判官というプロの職業が必要なのです。完璧なアマチュアである一般市民が同様の責務を背負うことは不可能でしょう。ぼくは、「裁くんだ!」みたいな深刻な態度はとりません。自分の意見・感想を述べるだけ。裁くのは、あくまでも裁判官たちです。

不安なのは、裁けると信じているらしい人がいること。裁けないと自覚する人は、いわば「良心的拒否」で参加しないかもしれない。さらに、重要なポジションで多くの部下を率い(命を預かり)公平な価値観で尊敬を集めるリーダーが、その多忙さゆえに欠席となり、日がな一日テレビをボンヤリと見て遊んで暮らせる何の責任感も有さない暇人が、それゆえに法廷に臨む。そのアンバランスさのほうが、ぼくには怖い。

明日にも「赤紙」が届くかも。いや、実は、すでに? だとしても、言えないんだよね。守秘義務ってやつがあるからなあ……。これも、面倒である。いや、これこそ、まことに、つらい。人は、喋りたがるものだからね。

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2009年5月24日 (日)

変わるべきは何か、何者か

前項で、seigu先生が(無前提に)引用されている「桑原さんのブログ」とは、元獨協大学学長で労働経済学・労使関係論を専門とされる桑原靖夫氏による「時空を超えて Beyond Time and Space」(http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer)のことです。当方も、2年前くらいからかな、巡回していますが、かなりの知的高レベルゆえ、たまに口出しする程度、(ほぼ)欠かさず読んではいますが、いわゆるROM状態です……。

そんな、敷居の高さにもかかわらず、巡回ルートに入れたのは、桑原氏が語られる「第三のイタリア」に、いたく触発されたからです。これは、イタリア北部の工業都市や農業に依存する南部の都市とは違う、中小企業や職人による伝統工芸が発達している各種都市や地域のこと。こうした都市の多くは中世から伝統工業によって発達した都市が多い……ということのようです。
詳しくは、桑原氏が99年に講演した「グローバル化時代の産業立地と雇用創出~先進モデルに学ぶ雇用・人材開発・技術蓄積~」を。→ http://www.jil.go.jp/jil/kouen/no_14.html

さて。桑原氏は、最新記事のなかで、このように指摘されています。
「イタリアはグローバル化の大波の中で、政治経済上の舵取りもままならず、国としても大きな危機に直面している。産業立地の衰退もそれと無縁ではない」と。
さらに、「日本の地域の衰退を見るとき、こちらも劣らず重症だ。地方都市を訪れてみると、その衰退ぶりに愕然とする。かつては輝いていたあの都市が、どうしてこれほど寂れてしまうのかと思うことも一度や二度ではない」とも。
このあたりを、大田(東京)などの技術集積地に造詣の深いseigu先生が問題にされているのでしょう。

たしかに、議論に値すると思います。
ただ、「日本の中小企業が強くならないと、幾ら政治が動いても社会は変わらない」との指摘には、やや賛成できず。
我が国は戦後、一貫して「護送船団方式」による「大企業」および同グループの育成に力を入れてきたように受け止めています。対して、極論すれば、中小企業には単なる「庇護」だったのではないか、と。
「弱い」中小を強くする施策は、残念ながら、国の基本方針としては無かったのではないでしようか。地方自治体の首長らは、それゆえ、地場産業の強化に懸命ですが、その言動には、このところ「国はアホ」的な中央批判の色が濃くなっています。現場で苦闘する者ならではの正直な感想なのでしょう。

まずは、政治が動き、そのうえで、中小企業が強くなることで、社会が変わる。そう感じます。
地方の政治は、すでに動き出しています。中央も動かなければならない段階にきていると思います。政権交代さえすれば、との甘い期待は持っていません、が、地方での政治の「変化」は確実に、経済に影響を与えています。民主党に、こうした「担当能力」があると信じるほど楽天家ではありません、が、現在の政権与党も、呉越同舟というか、似たような体たらく。

大企業から零細企業まで、数は少ないけれど、いろいろなビジネスの現場を取材してきて強く思うのは、前者は、総じて「ぬるい」。後者は、頑張っている。言い換えれば、日本の中小企業の芯は、強い。これまで、その弱い体力で必死に、図体のでかい大手を支えてきた。でも、それも、限界に近づいている。

大企業も変わろうとはしている。しかし、一部の製造業は、「グローバル化」を大義名分に、安易な方向へと、すなわち、労働単価の低い中国・ベトナムへ逃げ出す、「空洞化」の愚道を進んでいるように思います。
このような「中小殺し」を阻止するには、政治が真の政治力を発揮することが求められるでしょう。「下請法」なんて有名無実な愚策では、中小が強くなれるはずもなく。「金」は大切ですが、所詮、「血液」に過ぎず。弱った筋力は回復できません。カンフル剤を打ち続けても、折れた骨を接ぐことはできません。

具体的には、では、どうすべきか。専門家ではない当方、ここから先は語れません。

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2009年5月18日 (月)

かわる

特には岡田さんのファンではない。むしろ、あまり見た目の魅力は感じられないし、あの演説でもインパクトに欠けていて、29票の差は当然かも、と思ったりもする。プリンス鳩山さんのほうが迫力あったもんなあ~。
世間は「傀儡・鳩山よりは」と支持した。「脱・小沢」との意味合いだろうから、間近に迫る総選挙のことを考えれば、これは大切にしなくてはいけないだろう。イメージって、バカにできないからね。

でも、おそらく、風や空気だけで過半数を制することができるというほど、事態は甘くないのかもしれない。「旧い体質そのもの」と批判されようと、いわゆるドブ板で、選挙区回りを密にしなくては、比較第一党すら届かない……豪腕・小沢さんは、そのあたりシビアなんだろう。

ぼくは、何回か触れたかもしれないけれど、いまの民主党を支持しない、しかし、政権交代論者でもある。とにかく、我が祖国が抱える諸問題を、少しでも解決の方向へと進めるには、それしかない。そう信じている。
小沢・民主は好きじゃない。それでも、いまの首相・政権与党よりは、ほんのわずかながらでもマシだろう。永田町が変われば、霞ヶ関も変わる可能性に期待が持てる。

政権担当能力があるか、と、よく問われるけれど、それこそ、もともと自民党やら与党にいた人が多いのだから、心配あるまい。
そもそも、民主党に任せられるかと不安視する向きが、同時に「所詮、田中派じゃないか」を云々する感覚が、ぼくには理解できない。
なにも、共産党単独政権が誕生するわけではない。それなら、ドキドキもしよう。よくも悪くも、興奮する。だけど、「寄り合い所帯」と揶揄されるように、まさに内実は「自民」「さきがけ」「社会」「民社」などの出身者で構成されているのだから、いったい、いかなる心配があるというのか。ただの「交代」に過ぎない。

あんまり野党を続けさせると、それこそ担当能力が無くなってしまい、できもしない「理想」ばかり声高に叫び、現実味を喪失、「チェンジ」のチャンスがゼロになりかねない。そのことの不幸に比べたら、「小沢支配」のリスクなんて、高が知れている。

変化って、そんなにもコワイことなんだろうか。

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2009年5月 8日 (金)

「月9」が不振だってね

GW明け、つまり、当方にとっては修羅場を抜けるタイミングで、ようやく一息つこうというところです。布団を干したり洗濯したりと思うものの、あいにくの雨空、さて、溜まったビデオ、じゃないや、DVDでもなくて、えっとぉ、ハードディスクに録画したものは、何と呼べばいいんだろうなあ……、まあ、とにかく、テレビ番組のことです、のんびり観ようかなあ~なんて。

そうそう、あるとき、知り合いに、ぼくが結構なドラマ好きであることに感心したと言われた。意外だった。報道番組や討論番組しか受けつけない硬派な人間とでも? まあ、真面目な場で会うことが多かったから、無理もないか。

でも、よくよく考えてみると、ドラマ好きは昔からだけど、社会に出てからの四半世紀くらい、それなりに語れるほどの機会には恵まれなかった。会社勤めだったし、5時に退社する立場にはなかったしね。若いときはビデオデッキもなかった。
それに、都内のど真ん中に住んでいたころは帰宅に30分という好条件だったけれど、郊外に引っ越してからはドアtoドアで1時間半から2時間弱。たとえば、6時に会社を出て、寄り道しなくても、8時。実際には、なかなか定時には帰れないものだしね。
たとえ帰れたとしても、家庭があるわけで、ドラマに集中できるとは限らない。当初はテレビも1台のみ。ビデオに録っても、それを観る時間がまた、いつでもOKではない。
そのうち、仕事が忙しくなってきて、いわゆる働き盛りの40代、日付けの変わらないうちに帰宅すること自体、珍しくなり……。

そうなんだよなあ~、自分好みのドラマをじっくりと観るような環境は、ここ数年なんだ。80年代後半からのトレンディドラマなんか、ほとんど知らない。「月9」も縁がなかった。バラエティもニュース番組も、同様。だから、深夜の「朝生」やら、日曜朝の「サンプロ」は、貴重な情報源だった。

そもそも、テレビに依存する生活ではなかった。情報源と書いたけれど、多くは活字からである。日刊紙はもちろん、週刊紙や月刊誌、本の本『ダ・カーポ』とか、そうしたものを活用していた。小説も、平均値からしたら相当の乱読だったろう。往復4時間は常に、本を読んでいた。

あっさり言えば、そういう生活スタイルが逆転したわけだ。いまや、ほとんどの「余暇」をテレビ視聴とレンタル映画鑑賞にあてる一方、活字の吸収は激減した。電車の中では音楽プレーヤー。

こんなことでは、やがて知的レベルが……と心配する向きもあろうが、いや、なに、当初は楽しかったワイドショー・情報バラエティには飽きてきたし、ドラマも選択の時期に来ているようだし、半面、以前はあまり興味なかったノンフィクション・教養番組が意外に面白いと感じているし、さほど悲観することもあるまい。
ただ、本は、読めなくなった。これは、老眼のせいばかりではないだろう。

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