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2009年1月

2009年1月31日 (土)

マザコン

敬虔な仏教徒ではない小生、「納骨」という節目に特段の感慨はない。単なる作業とまでは言わないけれど、寒空の下、墓の前で僧が読経をあげているなか、ん? 帽子をかぶったままだけどマズイかな~、いや女性のアクセサリー、マフラーみたいなものだよね、非常識ではあるまい、だいたい屋外なんだからコートだって着たままだしぃ~、なんてことを考えていた。

骨は所詮、骨。墓は所詮、墓。母は、もはや、この世を去り、どこにもいない。魂も、残念ながら、あるまい。あっても、ぼくにはわからない。わかることは、ただひとつ。母は、ぼくの記憶のなかに永遠に住み続ける。つまり、分骨しようとしまいと、墓に入れようと入れまいと、そしてぼくがどこにいようと何をしていようと、そのぼくのなかに母はいる。

四十九日も百か日も、さらには一周忌や三回忌など、それらは生きる者に向けた法要であり、ぼくの母に対する想いとは異なる。ぼくは、徹底した個人主義者だから、常に「自分にとって」の発想をとる。いつ成仏するかも、ぼくには関係ない。その記憶の引出しの奥におさめたときが、ぼくの納得する「成仏」である。

いまは、最寄りの引き出しにあるから、頻繁に思い出す。去年の正月はすでに闘病中だったけど、とても元気で父のほうが瀬戸際、初詣は妹と3人だったなあ~とか、その前の正月も父は入院中で、やはり3人で集まり、母の大好きなお好み焼きを食べに行ったなあ~そのとき、これからはこういう機会が増えるだろうねと語り合った、でも結果は、それが最初で最後だったなあ~とか。

あははっ、いかにもマザコンらしいかなあ……。

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2009年1月25日 (日)

ライブ・ウィーク

1週間のうちに4つのライブに行く、という、かつてない経験をしているところです。「そこそこ」のものもあれば、久しぶりに「堪能」「満喫」という言葉を実感したり。詳しくは、一段落してから語りましょう。

きょうは、「儲ける」について感じたことを。
これらのイベント、盛況かどうかは別にして、「大儲け」とは縁遠いようだ。小さなライブハウスでのそれは、ハナから利益を考えていないだろうが、あるライブでは立ち見も出た。直接経費だけを対象にすれば赤字ではあるまい。しかし、その裏で関係者が、文字通りの粉骨砕身、睡眠時間を削っての奮闘を繰り広げた事実を、少しだけ知る立場にあり、それら間接的なコストを計算すると、どうやら、「実」よりも「意義」のほうが大きいのではないか。

それも悪くはない。たとえば音楽関係ならば、CDを出すなどして、それが売れればOK、なのかもしれない。また、今回を機にメジャー・デビューできるならば、というのも有りだろう。次へのステップ、と割り切るのも手ではある。

でもね……。客であるぼくらが大きな満足感を得たとき、「第2回目も」とのリクエストに、主催者側が「やりたいのはヤマヤマなれど、この負荷では年に一度が限界」としたら、なんか、変だな、って思う。
スタッフを2倍にしても採算が合うようにするとか、それほどの苦労に見合う利益が得られるよう、つまり入場料を高く設定するとか。
もちろん、金を支払う側としては、首を絞めることにはなる。チケット代は安いに越したことはない。けれども、適正利潤は必要だろう。

関係者がここを読んでいるので、あまり大きな声では言いたくないけど、ある催しで、ぼくは、観る前は「チト高いなあ」と感じていたのだが、終わった直後、あと3000円出してもいいと、正直思った。

この思いを、どう具現化できるか。ひとつに「投げ銭」という仕組みが有効ではないか。路上の大道芸人に対し、その芸を観てから幾ばくかの金を払う、あの方法である。あらかじめ「入場料」を設定しての興行では、難しいかもしれない。でも、「出来高払い」っていうシステムもあることだし。

「気持ちだけ受け取る」美学も良い。だけど、「気持ちをお金に」するのも、けっこういいんじゃないかなあ~。

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2009年1月18日 (日)

「遅れてきた青年」

また、ひとつトシをとった。今年は、齢を重ねることができたことに、幾ばくかの重みを感じる。ま、57という数字は半端で、ことさら祝う筋合いでもないけれど。

40年前なら、節目となるか、先日、テレビ放映されたこともあって、1969年1月18日を想う。そう、「東大安田城攻防戦」。この日、高校2年生のぼくは、部長兼編集長として関わっていた、その学校新聞のできあがりを待っていた。職権乱用で、自らのバースデイを、最後の発行日にしていた(以前にも触れたが、6年制の母校では高3になると「公職」から離れ、受験態勢に埋没する)。

土曜日の午後、放課後。ワンセグもケータイもないから、事態の推移は不明。でも、激しい戦いが繰り広げられていることは容易に想像できた。後輩の一人が、バリケード封鎖中の東大に行き、要塞と化する安田講堂を見ていた。彼は「あそこにいたかった」と、本郷の方を見つめながら吼えた。もう一人の後輩と3人で、東大闘争について井戸端議論したことを、うっすら覚えている。

やがて新聞が届き、自宅に戻った。それからずっとテレビに釘付け。難しいことは言わない。いや、忘れた。ただ、スゴイと思った。「東大」の金看板を賭けての行動に、たとえ「外人部隊」が大半だったとしても学生には違いなく、身が震えた。「ヒロイズムにすぎない」との批判もあった。が、ヒロイックに酔わずして、あんな暴挙に出られるはずもない。熱くなりたいと希求した。

その高校では、ぼくは、いわゆる目をつけられていて、担任から「バカなことしたら退学だぞ」との忠告を受けていた。実際、前述の後輩の一人は2年後、「バカなマネ」のために処分された。意気地のない当方は、圧力をはねかえせなかった。大学に行きたい、行って自由に闘うぞ、そう決めた。

だけど、一浪してやっと立つことのできたキャンパスには、すでに嵐は吹きぬけた後だった。

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2009年1月14日 (水)

セーフティネットなんてものは

年末年始、この「大不況」や「派遣切り」など未曾有の事態にまつわる、かの「朝生」をはじめ、いくつかの報道・討論番組を拝聴。落胆しきり。
要するに、現下の緊急事態に対し、景気回復に妙案なく、「介護や医療など成長産業を育成し、地方分権を」とか、また労働問題では「セーフティネットを」という声が支配的だったのだが、当方の感想は、ただ一言、「なにをいまさら」である。
とくに、後者は、この10年、ずっと言われ続け、しかし掛け声だけ。まあ、少しは何かやっているんだろうけど。

10年前、失業率が5%を超えてきたとき、「起業」ブームが起きた。いまほど酷くなかったとはいえ、再就職先には限界があった。なかでも「団塊」の世代は「終身雇用」の枠組みから外れると、もはや如何ともしがたく。なんたって「サラリーマン」しかできないのだから、「スキルは?」と問われ「部長ならできます」と答える、お粗末さ。さらに、余剰人員だから首切りされたのに、年収は維持しようという、ゴーマンさ。
1年近く「浪人」しても次の勤め先は決まらない。リストラの美名のもとに人員整理は進む。「分母」は増え続けた。そこで、こういう人間を「ベンチャー」の美名のもとに「一国一城の主」にしようという政策がとられた。会社を興し社長にしてしまえば「失業率」の対象にはならないからだ。音頭をとったのは当時の通産エリート官僚。これは、担当課長から直接聞いたことである。

ぼくは正した、「社会に出てから20年、ずっと雇用されることしか知らないのに、雇う側の経営者など務まるはずがない」「早期退職の加算で1000万円ほど持っていれば、とりあえず会社は作れるだろうが、維持などできない」。
何が起こるか。倒産である。そのとき、失業保険は無い。蓄えは資本に投入され、残っていない。そのうえ、個人が事業を始めれば、金融機関からの借り入れに、たいていの場合、社長の個人保証を求められる。つまり、つぶれるのは会社だけでなく、本人も、そしてその家族も巻き込まれる。自己破産の道しかない。
日本人はけっこう道徳観念が強いので、安易に「みっともない」方法は選ぶまい。まちがいなく自らの命で責任を取ろうとする。自棄になれば犯罪に走る。どちらの道もダメなら「ホームレス」が増える。
失敗したときの「セーフティネット」が必要だと力説した。自著でも指摘したし、参院の委員会でも証言した。

結果は言うまでもなく。命綱なしの綱渡りなど、プロ中のプロだけが成し得る業である。一瞬、開業率は上昇したが、廃業率も当然、それを上回る伸びとなった。ぼくの周囲でも、事業を維持しているのは少数派である。幸い、自滅した例は聞かないが、世間では、きっと相当数が悲惨な末路を辿ったのではないか。実際、自らの生命保険金を「残された社員の退職金に」と自殺した経営者がいた。

「派遣村」の惨状は、少なくともぼくにとっては、当然の帰結である。

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2009年1月 6日 (火)

仕事始め

多くの人は5日から仕事かな。当方も。久々の出勤に疲れを覚える、怠惰な性格、今年は一層か。例年のごとく、しばらくは年明けの取材ラッシュ。なかでも8日の木曜日は5件。相手方の都合なので、どうにもならない。もうじき57歳、体力に不安。翌日も休めない。この週末は、おぉ3連休か~人並みに満喫しよう。

年の暮れのほぼ1週間、大掃除に明け暮れた。結果、生まれて初めて、だと思う、「アカギレ」に襲われた。大晦日の前々日あたりから、両手が荒れだした。最初、何かイケナイ病気になったのかと、見当違いの恐れ。実は、「ヒビワレ」とか、CMで馴染みの「パックリ」というやつ。相方の指摘で、あぁ~なるほど、と納得。

思えば、仕事の多忙にかまけ、年末の大掃除、さほど経験してこなかった。連れ合いに任せっきりだった。最悪では大晦日まで出勤していたし。それが、家事もこなす環境になって、少しは真似事に勤しんだ。が、所詮は「主夫」。相方の協力もあって、そんなに没頭していなかったのだ。一昨年は、その相方の病気で、かなり手抜きとなった。そこで、去年は、けっこう本気で取り組んだ。ちなみに、相方は、幸いにも(だと思う)、仕事。

毎日、雑巾しぼり。1日に何度も何度も。当初は水だったが、意気地が無いので、やがてお湯に。それも、よくないらしい。気がついたら、あの「パックリ」すら発生し、いやはや、CMの表現に「大袈裟だよ」と冷ややかだった自分に反省。大急ぎで、ハンドクリームを塗る。正月三が日を経て、やっと改善した。

まあ、皮膚の、パワーというか新陳代謝の低下も影響したのだろうが、なんにしても、家事労働の大変さを認識した。そのうえ、大掃除の初日にキレイにした箇所、数日経てば、もうホコリがたまっている。そう、年に一度くらいのことに悲鳴を上げてはいられない。もともと、そんなにバカにしていたわけではないが「主婦業」って、ホント、すごいや。「仕事始め」なんて言ったけれど、この仕事には「始め」も「納め」もない。

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2009年1月 1日 (木)

新年を寿ぐ

朝の7時か8時か、相方が寝床を抜け出し、ヒーターを点ける気配。そんなに寒いかなあ~と思いつつ、ま、いいや、年の初めは大きな心で、と、再び夢の中へ。

年々歳々、元旦の起床時間が遅くなる。昨日がきょうに、08が09になっただけ、そんな思い故か。今年は特に、賀状の楽しみもない。果たして、仕事のつきあい先、我が喪中を知らない知人、そしてDMもどき。

それでも、駅伝好きの相方、そろりと起き出す。ぼくもつきあう。正月から、2台のテレビで、それぞれ別にチャンネルを合わせるのも、なんか、楽しくないような……。明日と明後日の「箱根」は遠慮したいが。

そして、白味噌ベースの雑煮を食べる。ぼくの隣の女性たち、母親を除けば関西人がいない、だから、趣向は不一致。だけど、これだけは譲れない。我が相方も、健気に、「味の加減がわからないのよね~」と言いつつ、はや4回目? だいぶ慣れたようで、美味。

おせちは、飽きた。が、伊達巻と栗きんとんなど少々。これは相方の母の気持ち。陽射し暖か。北国や雪の多い地域の人には申し訳ないが、東京圏、めったなことでは荒れない、ほぼ毎年の、「おだやかな元日」、今回も満喫。

分厚い新聞を読みつつ、おや、もう陽が傾いている。新しい年の最初の1日、半分以上が過ぎ、そうして、2009年が、ゆるりと回り始める。

どんな年になるのか。そんなことはわからない。どんな年にしたいのか。それも、特段には……。半端な期待のツケは、意外に厳しい。しばらくは、なるようにしかならない、そんな気がする。我が身の丈は、そうそう変わるまい。

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