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2008年11月17日 (月)

おくりびととして

こういうネタ、律儀な性格でいらっしゃる翁はともかくも、コメントのしようがなく、ブログとして楽しくもなく、もうよそうと思っているのだが、なかなか……。

筑紫さんの追悼番組を観た。胸に迫る内容だった。何よりも、いかにテレビ・キャスター、メディアの人とはいえ、2時間特番で弔ってもらえる立場を、少し羨ましく感じた。動画がたくさん残っているので「絵になる」わけで、生きていてこそではあるのだけれど、でも、あんなふうに送られるのは、いいね。

市井に生きた母は、もちろん不特定多数に悼まれるようなことはない。そのうえ、義理がらみの参列を敬遠した。「本音男」の小生でも齢を重ねると「世間のつきあい」をまったく不要とは思わなくなったのだが、母の遺言により、極めて少数にだけお知らせした。親族を除いて30人の見通し、式場では椅子を40ほど用意した。実際には70人を超えた。恐縮ながら、半数近くの方に立ったままで参列いただいた。でも、ちょっぴり、うれしい誤算だった。

我が家は浄土真宗大谷派で、母はその系列の学校出身者、仏壇もある。だが、多くの日本人同様、クリスマスを祝い、正月には神社に初詣。娘(当方の妹)の結婚式はキリスト教式だったし、当方も神道スタイル。つまり、ときたま指摘する、習合主義そのままの、ごった煮である。それでも、葬式は仏教形式で行うのが、まあ、当たり前と考えるものだろう。もっとも、母の母はキリスト系のホームでお世話になっていた関係から耶蘇式、小生の妻はクリスチャンだから当然。いやはや、めっちゃくちゃですね。

母は、こだわらなかった。小生は、「既成概念」に拘泥した。「南無阿弥陀仏」を理解しない者が、それを唱える僧侶を迎え母を送ってもらうことに、強烈な違和感を覚えた。参列者の信じる教えは多彩だろうし、仏教でも「南無妙法蓮華経」の人もおられるはず。喪主である父の賛同も得たので、葬式は無宗教の形とした。正しくは「特定の宗教に依らない」かな。とにかくも、「葬式仏教」ではなく。僧の読経も無し。

そのかわり、母の人となりや、「その日」に至る経緯については、なるべく詳しく伝えたかった。いくつかの葬儀に触れ、故人のことをもう少し知りたい、と、かねて感じていた。喪主サイドの形式的な挨拶よりも、親しき者の死をどのように悼んでいるのか、その心情を可能なかぎり報告するのが「務め」だとも思った。

母は22歳で故郷大阪を離れ、東京に55年間住んだ。参列者の大半は、この40年なり30年、または10年以内の知友である。母の若いころは当然知らない。茶道師範の母の和服姿はファミリアでも、カラオケに興じたりエアロビを楽しむシーンは想像外かもしれない(息子にとってもアンビリーバブルではあるが)。

「通夜」という表現をあえて避け「惜別の会」に。開会挨拶を、4分のつもりが6分、喋った。母の人生を、駆け足で振り返っただけ。でも、少しは伝わったようで、何人かから、お褒めの言葉を賜った。「いい葬式だった」とも。「自分のときも、こんなふうに……」。だけど、できない? 何故なら「主役」は不在だから。結婚式とは違うものね。

そう。だからこそ、「おくりびと」の責務は重い。

1か月。母の「不在」は、なお実感できず。マザコンの息子は、じわじわと募る淋しさを、さて、如何にせん。

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コメント

「律儀」と言われると、天の邪鬼ですぐにコメントを付けるのがためらわれました。
しかし、それも大人げないなと、短く言葉を送ります。
お母さん、いい送られ方をしたと思います。葬礼は、つまりは送る者の意志で営まれ、生きている者が少しでもお送られる者を心にとどめる儀礼と思います。それを慣例で執り行うのは意味なし。

筑紫さん、いい送られ方をしたと思いますが、戦い過ぎとも思います。筑紫さんらしいと言えばそれまでですが。「残日録」か、ああいう風に病気を記録することががんをのさばらせる原因にもなる。愚生は、血圧の記録をつけていたのですが、少し落ち着いたこともあり、血圧測定を止めました。朝と夕方の、交感神経と副交感神経との交代時期に体調不良を感じるので、その度合いを自己判断して対応するようにしています。免疫学の知恵を借りてです。

短くのつもりがやはり長くなりました。清愚合掌

投稿: seigu | 2008年11月18日 (火) 08時04分

翁、ありがとうございます。

>>ああいう風に病気を記録することががんをのさばらせる原因にも
とは、さて、どのような意味合いで? 「たたかう」のも善し悪し?

投稿: hiperk | 2008年11月19日 (水) 15時27分

病への姿勢として、特にがんに対して、手術をしない、放射線などの対抗がん治療をしない、薬に依存しすぎないという主張をしている免疫学者安保徹さんの説に従うとそういうことです。小生は十分に従えなくて薬の副作用に悩んでいるのですが。

記録をつけるのは、治療を科学的に、また自身の自律的療養にはいいのでしょうが、そのために免疫力が落ちる傾向があるという。のほほんとして、現代生活のくびきから脱するほうががんを抑える力があるともいいます。

がんには、闘うのではなくがんをなだめつつ自身の免疫力を高めるという方法があるということです。愚生には難しいのですが。

筑紫さんは、闘うリベラリストとしてがんに対したのかと思います。清愚合掌

投稿: seigu | 2008年11月20日 (木) 08時04分

なるほど、翁。以前、『患者よ、がんと闘うな』(近藤誠著)という本がありましたね、賛否両論だったような。
まあ、ウチの母の場合は、とにかく父より先になるのは悔しいと、頑張りました。おかげで1年余、楽しい時間を過ごせたようです。ある程度は「のほほん」と「なだめ」ていたのかもしれません。気分としては「闘った」といえるでしょう。

投稿: hiperk | 2008年11月21日 (金) 22時56分

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