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2008年6月 8日 (日)

流された血を贖うものは

イヤな事件がまた起きた。
実は別な原稿を用意していたのだが、ノーテンキな内容であるかどうかは別にして、とてもアップする気になれず。
何が一番イヤかというと、「相手は誰でもいい」と、ほざいているところ。
そりゃ、人間、最後のあり方はなかなか選べないけどさ、生まれてくること自体に否も応も無いとしても、でも、この世を去るときくらい、それなりに納得したい。
殺されるのは好きじゃないが、ま、OKって言える人はあんまりいないだろうけれど、せめて、理由はあってもらいたい。恨みでもなんでもいい。もちろん、たかが1万円くらいの金欲しさ、という動機なんぞアタマくるけれど。勝手な理屈でも、この際、いい。一応の訳は、欲しい。それが、誤認ですらなく、誰でもいいから、ってのは、とうてい容認できない。赦せん。

もうひとつ、犯人が、生きて逮捕されたこと。これにも腹が立つ。
ぼくは、原則、死刑制度に賛成しない。が、例外はあってもいいと思う。たとえば、冤罪の可能性がゼロのとき、被告がまったく反省してないとき、などの条件下でね。
それから、現行犯での犯人射殺、これも死刑みたいなもんだからね。極論だとの批判は甘受する、今回は、犯人を射殺しても許容できる事件だ。
それが、警官が銃を抜くと、とたんに白旗を揚げる。赦せない。7人もの命を奪ったヤツが、命乞いか。撃たれて、死ね。
捕まった以上、これから長い裁判が続く。弁護士は「心神耗弱」とやらを主張するだろう。1年か2年か、もしくはそれ以上、この犯人は、税金によって、生きながらえる。腹立たしい。
大きな被害が出た通り魔(的)殺人事件は、今年に入って3件目か。過去2件でも犯人は生きている。うち、ひとりは、「人を殺したら刑務所に行ける」とか言っていた。冗談じゃない。刑務所に行きたいなら、せめて傷害にしとけ。
死にたいなら、勝手に死んでくれ。
死にたくないなら、人を殺すな。

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コメント

本当にひどい。
事件の内容は詳しく知らない。昨夜は子供や孫、実妹夫妻など6人ほどの客があり、テレビもよく見ず、テロップで知った限り。本人は腰痛がひどく。
まるで戦国時代ですな。室町時代か。羅生門か。
近代国家の態をなさなくなってきたか。清愚合掌。まさに亡くなられた方に。

投稿: seigu | 2008年6月 9日 (月) 08時01分

ホントに、ヒドイ話ですよ、翁。見かけは、たしかに「羅生門」的ではありますが、少なくとも、いまは21世紀ですからね。
そのうえ。
昼間は取材で出掛けていて、ワイドショーの類は見てませんが、ニュース番組などでは、またぞろ、犯人の「心の闇」に言及する場面がチラホラと。学者の研究を邪魔する気はないけれど、テレビでのたかが数分間の考察など、不要だと断じたいですね。

予告までして7人を虐殺したヤカラの半生や動機や心理状態など、ぼくは知りたくもない。話を、あるかどうか曖昧な「リストラ話」に逸らさないでもらいたい。
犯人は反省しているらしい。そんなもの、要らない。キャスターは「依然、被害者への謝罪の言葉は無い」と伝える。それも、要らない、断じて、要らない。謝らなくていいから、反省などしなくていいいから、自らの血で贖え。1対7では、著しくアンバランスではあるけれど。

こんな過激なことを口走ると、敬虔な仏教徒である翁に窘められるかな。

投稿: hiperk | 2008年6月10日 (火) 01時47分

とんでもない。たしなめなどしません。
むしろ、そういう人間と同じ時代、社会に暮らしていることの「苦」を思うことしきりです。

「非道」と言う言葉をその男は聞いたことがあるのかしら。

しかし、そういう男は社会が生んだともいえるので、社会改革が重要であるとは言えますね。宗教なき社会は、というと、宗教があると思われているアメリカでも無差別攻撃があるではとなります。それでも、これは宗教的問題でもあると思います。合掌

投稿: seigu | 2008年6月10日 (火) 11時14分

先生にお叱りを得ず、安堵している小心者です。

宗教的問題であるとして、ぼくは、こういう問題は、「宗教(一神教)があるからこそ」だと、かねて考えています。たとえば、ジハード(聖戦)は、まさしく宗教心ゆえのこと(イスラム教を正しく理解していないかもしれませんが)。
そして、アメリカでの無差別殺人の多くは「反・宗教心」(アンチ・クライスト)が引き起こしているように思います。敬虔なクリスチャンが、あるとき何かの理由(理不尽な出来事など)で信仰心を失う、すると、「どうせ神に見放され天国に行けないのなら」と「非道」に走る。

多神教かつ習合主義的宗教の我が祖国では、この点、これまではかなりマシだったのではないでしょうか。言い換えると、前述の「神か悪魔か的デジタル」思考に対して、「アナログ」思考、つまり、「神も仏も無いのか」と嘆く事態になっても、「永遠なものなんて無い、どうせ世の中そんなもの」的な「無常(心)」が「非道」への転落を阻止する、というか、ある種のフェイルセーフの役割をもつ、そんな意味です。

しかし、近年、凶悪犯罪は件数としては増えていないのに、質的に変貌しているように見えます。そこには、この「心理的安全網」が壊れつつある、そんな状況が感じられるのです。その理由は、にわかには論じられませんが、ぼくらの社会にも「一神教」的な影響は避けられず。経済現象では「市場原理主義」、または「勝ち組・負け組」に単純化する考え方に見え隠れします。

「無常」は、ぼくの言葉で表現すれば「不条理」ですが、これは、「合理性」が前提です。いうまでもなく、アナログ民族は基本的に「合理性」を重んじません。にもかかわらず、「不合理な」話が最近、枚挙にいとまなく。ここが問題で。要するに、「不合理」を何とかしようと思っても、そもそも「理屈」を尊重していなかったため、落としどころが見えない。そして、ついには卓袱台をひっくり返してしまう。

性急な論理展開ですが、だからといって、ぼくは「村社会」の復権を主張したいのではなく。ご存じのように、「個」の尊厳を声高に叫ぶ者ですが、しかし、どうやったら「全体」と融合できるのか。いやはや、難しい。解けない方程式を解こうとしているでしょうか。

投稿: hiperk | 2008年6月10日 (火) 12時55分

いい応答で嬉しいです。
「これしかない」が危険。仏教というか東洋的な思考では、相手を全否定しない。そして一蓮托生的なところがあります。
それがいま日本で、「弧絶」主義がはびこり、「個」の確立などを通り越して人は人、我は我と「絆」断絶状態が浸透しているのではないかと怖れます。「絆」という言葉がいろいろな場面で使われています。それが一つの時代の象徴かと。

もちろん、わずかな%の非道な人の存在が全体を揺るがしているわけですが、そのことは数字では計れない。ところが数字で計ることしか教えてこなかったし、学ばなかった。
ようやく、それへの反抗が起きてもいいなと。力さんなどの教育がそれへの先駆となってくれるのではと思いますが。

投稿: seigu | 2008年6月10日 (火) 14時37分

脚注・「力さん」とは、東京コミュニティスクールの校長で、seigu翁も含めた、われらが仲間のひとり、市川力さんのことです。
http://tokyocs.org/

投稿: hiperk | 2008年6月10日 (火) 19時07分

慌て者で、「力さん」などと口走りました。
hiperkさんの仰るとおり。
なお、HPアドレスは、以下が現行。リニューアルしています。旧でもつながりますが。

http://tcs.dialog.jp/www/

話はずれますが、水泳選手の水着。あれってドーピングと同様では。世界水連で歯止めをかけないと、選手がかわいそう。もっと自然に闘えるように。こういうように科学技術と企業間の闘いが先に立つから「非道」人が出現しやすくなると思います。清愚合掌

投稿: seigu | 2008年6月11日 (水) 09時31分

hiperkさんの書かれていること、その通りやな、って思いながら、seiguさんのコメントもずっと読ませていただきました

>ニュース番組などでは、またぞろ、犯人の「心の闇」に言及する場面がチラホラと。学者の研究を邪魔する気はないけれど、テレビでのたかが数分間の考察など、不要だと断じたいですね。

と書かれたhiperkさんにうんうん。と頷きながらも、犯人の青年の心が、孤立して屈折したものであったのは確かだろうと、携帯サイトへの書き込みを見て思いました
「誰でもよかった」とは、憎むべき人さえもいなかったの?・・・
もちろん、だから許されることでは断じてないです

さっき、犯人の両親の会見を見ました
二人の息子を持つ私は、犯人の母親の泣き崩れる姿を見て、同じ母親として胸が締め付けられる想いでした
犯人の親としてどうやって責任を取っていくのか?と言われても、ただただ謝るしかないだろうし、25歳にもなった息子でも、親として子供が犯したことに責任は感じるだろうし、自分の子育てに後悔ばかりを感じるのでしょうね

本当にやり切れない事件でした
またまた図々しく、幼稚なコメント失礼しました・・・m(_ _)m♪

投稿: | 2008年6月11日 (水) 16時25分

すいません・・・
コメントに名前書き忘れました
またまたまた 失礼しましたcoldsweats01

投稿: vanilla | 2008年6月11日 (水) 16時28分

seigu翁に、お伺いですが、その「水着」の話、コメントツリーをつなげていくと、オリジナルがわかりにくくなるやに。構造的に、スレッドを意図的に分けることのできないブログですので、別途、取り扱いたく。当該部分を「引用」とし、当方の新しい記事に挿入したいのですが、よろしいでしょうか。

投稿: hiperk | 2008年6月11日 (水) 18時05分

見掛けに似合わず、おっちょこちょいのvanillaさん、って、未見の人に対して、失礼な言辞。恐縮。
幼稚だなんて、とんでもない。素直な感覚だと受け止めていますよ。

ぼくの論理展開、やや性急過ぎたと思います。怒りに任せて書いたからでしょう。犯人の「背景」についての考察は必要です。が、ワイドショーごときがすることではない。
すでに、「キレやすかった」とか「中学では優秀、高校ではビリ」などなど、チラチラと出てますが、こんなこと、なんにも説明できていません。激高タイプは珍しくなく。学業の挫折も、当方もそのひとり、当たり前の話。「社会全体を憎む」のも、いまさら。再び、当方もそのひとり。そんな「事実の断片」では、何も語れません。
むしろ、そういう、一般に受け入れやすいピースの羅列で済ませることは危険でもあります。「ゲームの影響」とか「ネット依存」とかね。ぼくなんて、完璧に「ネット中毒」ですもの。
ですから、前段については、「孤立して屈折したもの」から、どのような「触媒」を経て、あのような非道に走ったか、ほとんどの人間はその手前で引き返す、深くて暗い河を何故、渡ったのか。丁寧に考えるべきなのですが、それは、専門家の任です。ぼくらが井戸端会議で喋るのは勝手でも、マスメディアで垂れ流してよいことだとは、あっさりとは肯定できません。

少しズレますが、被害者の「プロフィール」報道も過剰だなあ~と、ちょっとネガティブになっています。いまに始まったことではないのですが、「大学に入ったばかり」とか「夢の実現の一歩手前だった」とか、そういうの、あんまり言われ過ぎるの、ぼく、好きじゃない。
アマノジャキー(天邪鬼なやつ)としては、ほんなら、平々凡々の人生を歩んでいた被害者への同情は、軽めでいいの? って言いたくなる。いや、誤解を恐れずに言えば、被害者にだって「善良でない部分」はあるはずで。殺された人間が、失業中とかプータローとか、ちょっとグレたやつだったら、その無念さは大々的に報じないの? とかも。

つまり、どのような人物であろうと、あんな理不尽な殺され方は認められない。同時に、どのような性格であろうと背景があろうと、あんな非道は赦せない。

それにしても、口数の多い男でしょ? 退(ひ)かないでね。こんな感じの「メール爆弾」(てゆか、ほとんどストーカー寸前)に、何故か、健気に、ついてきたのが、我が相方でしてcoldsweats01 そんな10年前の思い出を語ったのが、6/8の幻の日記です。これが一段落したら、アップしますけど。

投稿: hiperk | 2008年6月11日 (水) 19時32分

あっ、長いコメントのわりに、後段を忘れていた。ふぅむ、ぼくも、そーとーおっちょこちょいだ。

「親」の話。やりきれませんねぃ、ホント。
ぼくにも子どもがいます、どぉしょおもない一人娘が(モニターの向こうでの一部の人の苦笑が目に浮かぶ)。
成人しているから、彼女が何をしでかそうと、当方に「法的な」責任は無い。でもね、、、「人道的」というのか、何かしらの責任は完全に否定できるものではありませんよね。てゆか、カメラの前で「子どもは子ども、親は親は、わしゃ関係ない」なんて口にしたら、どれほどのバッシングを受けるか。想像だに恐ろしい。

あんな会見、開かなくてもいいのに。でも、やらないと、ワイドショーが許してくれないんですよね。ちょっぴりマシなメディアも最近では(覗き趣味的)本性を隠しませんから。

もっとも、ここだけの話、てゆか、正直に言えば、やっぱ、親も、どこかで教育、間違えたんとちゃうかぁ~、ってな気持ち、ありますし。

だけど、もし娘がアホなことやったら、「間違えたかなあ~、でも、いちお、しっかりと教えたはずなんだけどなあ~」とか、親としても、うろたえるだけだろうなあ。

しかし、ウチの子にかぎって、とは思います。ひとりの並みの親として。

でも、わかんないなあ~。。。あいつは、絶対神を信じるクリスチャンだし。。。(注・娘は4年前、20歳のときに洗礼を受けたんですよ、vanillaさん)

ぼくの世代は、儒教(的)教育を受けていませんが、親こそが絶対神だとの感覚はあります。耶蘇教では「親はジーザス・クライストの代理人、ジーザスは神の代理人」ですが、ほくには、親が神そのものでした、一時期。というか、親も神、祖父母も、おばもおじも。学校の先生も。まさしく八百万(やおよろず)。
ですから、「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、 孝の始めなり。」なんて、実は、けっこう、違和感なかったりして。これに続く「君(きみ)」がでてくると、もぉ違和感バリバリですけど。

投稿: hiperk | 2008年6月11日 (水) 19時34分

ある作業をしていて一息入れて開き、拝読。気にしながら書き込みました。
そのように。

ただ、スポーツと道具はそれこそ一蓮托生のことゆえ、問題は世界新記録などの数字競いがスポーツにとって望ましいのかという方向へ流れるといいと思います。よろしく。

投稿: seigu | 2008年6月11日 (水) 19時37分

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