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2007年11月13日 (火)

インタビューされる側

そんなこんなで、ぼくがインタビューするときのスタンスをくどくどと書いたのは、「される側」の経験に基づく感想のためでもある。
一言で結論すれば、きちんと話を聴かない記者が少なくない。多くの場合、「聴きたいこと、言わせたい言葉」を確認したら、取材はおしまいだと思っているようだ。つまり、会う前から「ネタ」が決まっている。それでは、公平な報道はできないし、深い取材も難しい。ひいては、ミスリードにもつながる。「必ずしも間違いではない」が「正しくもない」と。
もちろん、下調べや他の取材で得た情報を確認することは必要だが、相手の時間を割かせるからには、あるていどは内容を消化してほしい、と、「される側」のぼくは思う。「する側」のときも、可能な限り、そうしてきたつもりだ。ぼんやりとした「仮説」は当然、組み立てた上で話を聴くのだが、ABCまではその仮説がOKだったけどDでは違っていた、というとき、仮説の再検証は必要だろうし、少なくともDという少数意見もあると認識すべきだ。
ところが、新聞とくに日刊紙は、翌日とか翌々日の紙面に掲載するために動いていることが多いので、そこまでじっくり考えない。とりあえずCまでの話で記事にしてしまう。ぼくの話は、紙面では簡単に「Dとの声もある」で済ませてしまう。それでは、こちらが1時間以上、懸命に説明したことが報われない。当事者としては「Dこそ正しい」と信じているのだから。
雑誌などは、もう少し丁寧に取材してくれる。でも、一般に「A~C」と思い込んでいる記者に、実はDなんだよと考え直させるのは、なかなかに大変な作業だ。こちらも勉強して、そのA~Cのどこがおかしいのか間違っているのか、きちんと理屈をつける。そのうえでDを示す。すると、取材者の理解も深まり、同意を得られる。だが、そのためには2時間、必要になる。それがわかってきてからは、取材申し込み時に「30分でもいいですから」と言われると「いや、2時間で」と逆に注文をつけるようになった。
それでも、そのDという結論部分を、どの時点で明らかにするか、これもポイントだと思うようになった。Aはダメ、Bはおかしい、Cは思い込み、などと進めると、どうも、「こいつは世の中のすべてを否定したがるヤツ」とみなされるようだ。逆に、冒頭でDだと言い切ると、記者は初めて耳にする「事実」なので受け入れられず、結局は届かないみたいだ。だから、「何故ならばAはここがおかしい」と丁寧に説明しても、そのロジックが理解できない。
もちろん、誤解を恐れずに言えば、最終的には取材する側の知的レベルの問題になってしまうのだが。
あとは、インタビュアーの立場というか、環境みたいなものも左右する。ぼくが関わっていたのは「独立」だとか「開業」だとかのジャンルなのだが、「会社員」の記者にはいまひとつ受けが悪かった。しかし、フリーランスの取材者からは、土俵が同じであることに気づいてもらうと賛同が得られた。一方、ぼくらの活動はいささか社会的な側面を持っていたので、シンクタンクや大学の先生たちからも「ヒヤリング」を受けた。かれらは、おおむね、「調査をまとめる」ことに主眼があって、こちらの話を消化しようとはしなかったようだ。事実、かれらは組織の一員でしかない。
脱線だが、そのなかで、唯一といってもいい、真摯に受けとめてもらえたのが、このブログにときおりコメントをくれる「翁」である。当時は「教授」の肩書きだったかな、象牙の塔に毒されておらず、共有できる何かがあると感じた。このさきは、なにやら、おべんちゃらになってしまうのだが、個人的に話を進めると、翁は、こっちの考えていることの先輩だった。以来、ぼくは、翁を「師」と仰いでいる。ご迷惑、ご容赦。
でもって、官公庁の類も、たいてい失望させられた。まったく理解できないのはまだしも、知的水準の高い相手だと「Dのことはわかっている、が、役所としてはCでいきたい」と、つまり最初に結論ありきで、アリバイ的に済ませてしまうのである。これが最も罪深い。参議院にも呼ばれた。委員会で「参考人」にもなった。中央官庁の「研究会」のメンバーにも加わった。大臣との面談も実現した。でも、ま、つまりは、それで終わった。
自分の考えを話す、聴いてもらう、理解してもらう。そして、記事にしてもらう、意見として取り上げてもらう。そういうことの難しさを味わった数年間だった。
ただ、取材する側の身に戻れば、貴重な経験をさせてもらえた。

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