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2007年9月

2007年9月25日 (火)

十五夜でんなあ~

ぼくが「大阪弁フェチ」であることは、いつか書いたと思う。実際、それが大きな理由で女の子を好きになったことがある。だって、ぼくのDNAは関西人なんだもの。そりゃ、1歳半で上京しての世田谷・山の手育ちの自称シティボーイだけど、家庭内では「うっとこ」(うちとこ=自分の家)「~おまへんか」とかの言葉が当たり前のように飛び交い、納豆は21世紀の今日も「食べ物」として認定されていない。すべての男がマザコンとするなら、母親の話す「~そうやねん」に魂の故郷を見出しても当然だよね。
だけど、先日、関西芸能人のトークを聞いていて、ふと思った。ウチの両親の大阪弁は、かなり変質している。いわば、東京ナイズされ、標準語に近づいているのだ。もはや、ベタな「そうでんねん」なんて言わなくなっている。イントネーションこそ依然、元のままではあるが。「ごっつう変質してん」とか「~ち(ゅ)うわけや」なんて口にしない。思えば、当然ではある。すでに東京生活も半世紀を越える。それ以前に比べて2倍もの時間を、故郷から遠く離れて過ごしているのだ。
関西在住の叔母と電話で話す機会があった。正確には大阪市内ではないけれど、あの、ベタベタな「おおきに」「あかん」「ほな、さいなら」が耳に突き刺さる、正統派だ。また、あるとき、叔母とおふくろ、つまり姉妹の会話を傍で聞いたが、やはり、母は半ば「東京人」していた。もっとも、アクの強い妹に影響されてか、ふだんよりは「お国言葉」を多用してはいたけど。
ほんでもって思ったのは、我が相方が、おふくろと話をして、さほど違和感を覚えなかった(「女ってやつは……」参照)のは、この、標準語ナイズされた喋り方の影響もあるんだろうなあ~ということ。35年前は、もっとベタな大阪弁を使っていたはず。だとすれば、非・関西人にとっては、けっこうキツイ印象だったろう。当時は、関西文化への理解もあまりなく、関西芸能人がテレビのキー局で活躍する姿も珍しかった。いまや、立派に市民権を得ている。
おかげで、ぼくは、テレビで関西弁を話す女性にたくさん接することができ、大いに満足している。

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2007年9月22日 (土)

メディアってやつは……

案の定、「ちょっとチョーシに乗りすぎてな~い?」と、相方からコワ~いメールが入りましたので、ひとまず自虐的な懐古趣味にピリオドを打ちましょう。実のところ、続きも書き上がっているのではあるけれど、現実から遠ざかっているうちに、彼岸の入り。
とはいえ、まだまだ暑い。ホントに「暑さ寒さも彼岸まで」かいなとグチりたくもなる。が、もう少しのシンボーだ。これは、先人の教え。自然の摂理。短期的な統計とは次元が異なる。なのに、ほらほら、やたら大げさな言い回しが好きなマスメディアは「異常気象」を訴える。そりゃ、長い目で見たら、温暖化など地球環境の劣悪化に対して安穏としてはいられまい。看過してはいけない問題は多い。
でもね、秋はすでにぼくらの周りに漂っているじゃん。寒さの冬も必ず来る。その点については心配ないさ、とりあえず。百年後は知らないけど。現実には、もう、あのギラギラ太陽下の耐えられない感覚は随分と収まってきているし、陽が落ちれば、なんとかエアコンなしで過ごせる。でしょ? 少なくとも、ここ首都圏では、「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」だ。
どうしてメディアってやつは、数字だけでガタガタ言うんだろう。最高気温をみて「猛暑日」だの「真夏日」だのと騒ぎ、果ては「お盆のころみたい」と口走るキャスター。アホかっ。1か月前に比べたら、明らかに街の風景は違うだろうよ。アンタは、自分の感覚を無視するのか。肌に感じる暑さの差を認識できないのか。いかにスタジオの中は人工的な空気が支配しているとはいえ、外気に触れないで一日をおくっているわけではあるまい。数字しか信頼できないのか。己の感性はどこへやってしまった? 皮膚感覚はないのか。メディアに関わる身として、それは決定的な欠陥だろう。

話をもっと大げさにすれば、おそらく、現場でニュース原稿を書いているであろう、そしてそれらを読み上げる、20代後半から30代の層は、幼いときから数字に縛られてきたのだろうね。「点数」や「偏差値」という無機質なものに生き方の指針を預けてしまい、自らの「思い」を軽視してきた、または、そうせざるをえないような教育を受けてきた。
桜の開花や入梅のころにも、ぼくは、「数字偏重」への疑問を表したけれど、ほんの目先の僅かな違いに一喜一憂するメンタリティって、いったい……。開花が1週間くらいズレだからって、何なのか。そもそも、常套句の「例年は」というやつ、その「例年」なんて年は実際には一度も存在しないではないか。単なる「平均値」の上に成り立つ「数字だけの年」つまり「仮想」に過ぎないのに。毎年が、前の年と同じでなければ、または「例年通り」でなければ、すぐさま「異常」だというのか。そんなことを口にするメディアの「報道」は、ぼくにしたら、もはや、ほとんど「デマ」である。
一方で、この時期になると、さっさと秋物の衣装に身を包む、テレビモニターのなかの人物たち。そもそも年中、ネクタイ姿。空調の効く部屋にいるから、そんなバカな格好ができるわけだ。もう9月なんだから秋なんだから、夏物は着ない? さすがに気象コーナーでは「まだ半袖でも」とか「朝夕は何か羽織るものを」と気の利いた助言もしてくれるけれど。
最近になって、ようやく「日本の四季」への疑いがメディアにも登場してきた。でも、ぼくに言わせりゃ、かなり以前からだ。少なくともここ10年、いや15年くらいかな、おおむね残暑はいつまでも厳しく、なかなか秋が来ないなあ~と嘆き、やっと涼しくなったと思ったら暖房が必要になってしまう、もしくは、寒い日々がようやく終わった、暖かな春を楽しもう、と期待に胸膨らませていたら、あっという間に汗をかく季節に。年々、春と秋が短くなってきている。それは、中期的にみて、確実な変化だ。
なのに、メディアは、いつまでたっても「春夏秋冬」の信奉者。最も「保守的」なんだね。だから、ITなんたらかんたらの金融屋もどきの連中に乗っ取られそうになるんだよ。

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2007年9月21日 (金)

男と女ってやつは……

どうせ懐かしむなら、秋の夜長(というほど目にはさやかに見えねども)、思いきりセンチになってやろう。切ない経験だけを語ってしまったようだけれど、もちろん楽しいこともたくさんあった。一番の思い出は? 何だろうなあ。うん、あの朝と、あの夜だ。

前にも書いた、大学1年の夏休みの1本の電話から、なにやら「友達以上」になったぼくたちは、その秋、一緒に映画を見に行ったりして「恋人への階段」を一歩ずつ上っていた。70年代初頭だ、3回目のデートで云々なんてマニュアルはない。手探りで進んでいた。あのままなら、そうね……、その年のクリスマスあたりがタイミングだったかも。ところが、「事件」が起きた。
すでに当時、キャンパスの嵐は収まりつつあったけれど時代の気分は騒がしさを残していた。ぼくらも、そうした波に乗っていた。10月の某日、都内のある場所で集会があった。カノジョはその中にいた。そこで、警戒中の機動隊と衝突した。ぼくは別行動だった。まず、流血騒ぎの情報だけが伝わった。大丈夫かなと単なる心配。でも、それ以上はわからない。時間だけが過ぎていく。やがて、カノジョが怪我をしたことを知る。その場に居合わせた友人によれば、大したことはない、その夜は親友の女性のアパートを頼るという。カノジョは自宅通学だったから、そのまま帰宅することはできないのだろう。その女友達に電話を入れる。まだ病院から戻っていない。詳細は不明。真夜中が近づいている。元気な声が聴きたい。だが、ぼくも自宅だったから、ウチに電話をしてもらうわけにもいかず。とりあえず、翌日、大学の近くの公園で会いたいと伝言。携帯電話のない時代、いろいろと不便だった。
翌朝、ぼくは、約束の時間よりずっと早く公園に行った。不安一色。でも、待つしかない。ついに、遠くにカノジョの姿が見えた。頭部に白い包帯。痛々しく。そのとき、ぼくは、まちがいなく、恋に落ちた。
思えば、混乱のなかで、連絡先をぼくに伝えるべく努めたということは、カノジョ自身も、ぼくへの思いを自覚していたわけで。だから、「恋人」関係に達するに、時間は大して要らなかった。

それから1年余、ぼくたちの恋は燃え盛った。前述のとおり、二人とも自宅通学だったので、「おとなのデート」はままならなかった。互いに親の「公認」は受けていたけど、弱冠はたち。繰り返すが、35年前のことだ。自由気ままに「モーニングコーヒー」を飲める環境ではなかった。さまざまな工夫が必要だった。そのひとつが、前述の女友達の存在。この夏、カノジョは片道2時間の郊外に引っ越していた。夜が遅くなる場合、若い娘の安全を考え、故郷を離れて都内の大学に通うこの友人のアパートに泊まることが、ときおり(やがて、しばしば、そして頻繁に)あった。
私鉄沿線の駅から5分程度の道のりに、雰囲気の良い居酒屋を見つけた。寒い時期だったと記憶する、ある晩、いつものように、そこで軽く飲んだ。そのとき、ぼくのサイフも寒かった。恋の燃焼に比例して費用も膨れ上がっていた。もちろん、バイトもしたけれど、追いつかない。ま、若いというのは、そんなもんだ。
会計の段階で、カノジョが、三つ折りにした千円札を、テーブルの下から、そっと差し出した。しつこいかもしれないが1970年代である。ほぼ対等のカップルで女性が支払う様は一般的ではない。カノジョがぼくに比べたら小遣いが潤沢であることを世間は知らない。男の体面を配慮しての行為である。人、それを思い遣りと呼ぶだろう。
ぼくは、「こんな娘(こ)と一生、いたい」と強烈に思った。「また明日」を言いたくなかった。すぐ隣のカノジョに向かって「おやすみ」と言い「おはよう」と言いたかった。一緒に夜を過ごし朝を迎えたいと願った。結婚を明確に意識した瞬間である。
半同棲まで、いくらも時間は掛からなかった。そして、「寝込みを襲われる」のだが、それにしても、カノジョは、先の友達を口実に、どれだけの嘘を親についたか。それは、もちろんカノジョの「恋」の激しさでもあるけれど。振り返れば、ぼくは罪深い「恋人」だった。
まったく男女の仲ってやつは……。

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2007年9月20日 (木)

男ってやつは……

えーっとぉ、バランス上、本日はこんなタイトルをつけてみました。まあ、いまさらながら、女性はリアリスト、男はロマンチスト、もしくはセンチメンタリストでね、一般に。昔の恋人のことをずっと思い続けるなんて、まったく「男ってやつ」のバカさかげんをよく表していて、逆に、女性はさっさと単なる「記録」にしてしまう。「女々しい」という言葉は、ホント、おかしくて、正確には「男々しい」と表記すべきですよね。って、これも、すぐれて個人的な? ま、いいや、ぼくは自他共に認める、いくじのないやつで、軟弱な男ですから。

「シンデレラ・エクスプレス」は、ちょうど30年前の9月の出来事。カノジョは、おそらく、いや、きっと、もう、あの日のことを忘れているだろう。さすがのぼくですら記憶は断片的になってしまっている。しかし、新大阪駅で、その日の何杯目かのコーヒーを飲みながら、東京行き最終(午後8時発の「ひかり」だったかと)新幹線を待っていた、あの時間は凍結してしまっていて。10年を過ぎたころ、名前が変わってしまったが、その喫茶店の名前は覚えているし。列車のドアが閉まる寸前、その後のトレンディドラマのように、カノジョにキスしようとして(欧米かっ!?)、つと身をかわされ(そりゃそうだよね、当時の日本では公衆の面前でのキスははしたないものだった)、唇に届かず、頬に触れた、あの感触も。

前に「デリケートな事情」と書いたけれど、そのとき、カノジョは、ぼくの知る「姓」ではなくなっていた。その事実を伝えられたのは一時帰国のあとだったが、ノーテンキなぼくは、そんな事態は想像だにしていなかった。24歳。そのころのこの国には「結婚適齢期」というやつが厳然として存在していた。遠いアメリカからいつ帰るかわからない「恋人」を待って「25歳の壁」を越えるのは至難だった。親の勧める縁談を拒否できなかったカノジョを非難することなど、できやしない。
結果、8月にビザの更新のため戻ったぼくは、「恋人」と逢うことを赦されず、「人妻」とのデートという状況になってしまっていたわけだ。真っ白な、プラトニックな1日ではあったが、本質的には、「密会」だった。その事実の重みは、ぼくたちの未来を閉ざした。
そのうえ、カノジョの新生活は、すでに破綻していた。のちの「成田離婚」のパイオニアではなく(まだ「羽田」だったし)、それも、この浅はかな男のせいである。7月、一時帰国を知らせる手紙で、ぼくは、こともあろうに、「キミを忘れられない」と勝手なことをほざいた。式の1週間前だった。動揺したカノジョは、しかし、逃げられず、その日を迎えてしまう。新婚旅行から戻ると、そのまま別居へ。そう、カノジョの門出を壊したのは、ぼくだ。
結局のところ、ぼくは、最悪のタイミングで、プロポーズしたのである(そのぼくに、一国の総理の辞意表明の遅さなど批判する資格はないだろうなあ)。それでも、そのあとの展開が好ましいものであればまだ救われるのだが、一度切れた糸はもう紡げない。この、思い切りの悪い男は、そして、以来30年、後悔し続けている。人生にやり直せる瞬間があるのなら、まちがいなく、あの夏だ。だが、この道は、元に戻れない。若かった。無知だったし、無恥だった。だから、ぼくは、若さに憧れない。ただ悔やむだけ。
そのくせ、あの7年間を、ぼくは、いまも、懐かしんでいる。まったく男ってやつは……。

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2007年9月19日 (水)

女ってやつは……

こんなタイトルつけると、数少ない本ブログ・女性ファンからは非難ゴーゴーかも。逆に「ダンナ」族からはシンパシーが得られるか。それとも、すぐれて個人的な?
たまたま先日、おふくろと相方とぼくとの3人で話をする機会があった。前にも書いたように、相方とは籍を同じくしていないし、事実婚とも言いにくいので、母親にすれば「息子の恋人」にすぎない。でも、これはおふくろの特性かなあ、関係の濃い相手に「身内意識」をもってしまうのである。つまり、事実上の「嫁」扱いなのね。そう、「嫁vs姑」。幾つになっても「利害の一致しない」関係だ、本来なら。ところが……なんだか、ミョーに「一致」してしまうんだなあ~。

少し前の本欄で恥を晒した「寝込みを襲われた」際にも、叱責のなかに、不思議な「愛」があった。「この子には精神的に甘いところがある、貴女(当時のカノジョのこと)がしっかりしてくれなきゃ」みたいな言葉を平然と口にするのだ。ハタチそこそこのカノジョにしてみれば「冗談じゃない」よね。結婚したわけでもないのに「ちゃんと面倒みろ」と言われても、困っちゃうさ。その後、おふくろと接する機会はあまり多くなかったが、戸惑っていた。
実際の結婚相手とも「嫁姑」の関係ではなく「同じ女性として」という面を強調するあまり、当初はかなり誤解された。一例をあげれば、太り始めていたぼくの健康状態について「貴女が管理しなきゃダメよ」みたいな要求を、ストレートにつきつける。女房にしてみれば、何か文句をつけられたように思えて、愉快ではない。でも、母親に他意はない。単に、「先輩」からのアドバイスくらいのつもりなのだ。20年の間には、いろいろあって、もっと適切な事例もあるけどプライバシーの度合いが強すぎるからね、まあ、でも、なんとか折り合いはついてきたかなあ、という状態にはなったんだけど。

いまの相方とは、1年ほど前に初対面。独り身になって5年、あれほど息子のことを案じてきた母から、たとえば再婚話はひとつも舞い込まず、「男やもめにウジがわく」ことへの不安、つゆも感じられず。ついに、「心配じゃないのか」と訊くと「そんなわけじゃないけど」と気のない返事。で、アタマにきて(って、おかしな心理状態だろうけれど)、相方の存在を告げると、一転、すぐに会わせろと。そして、2時間かけて、ウチにやってきた。ずいぶんと事前レクチャーしたおかげか、さしたる混乱もなく。とにかく「息子をよろしく」と言い続けていた。もっとも、相方には、我が母に対する違和感、さほどなく。ふうむ。お互い、ぼくも含めて皆、いいトシだから、たしかに時間が解決する部分は小さくないようだ。「会談」は無事終了した。実際、相方は「ふつうのお母さん」と受け止めたようで、めでたし。
それから1年ぶりの再会だから、そんなには親しげな語らいではなかったものの、母はすっかり「嫁」として接している。相方も構えるところなく。いつのまにか、二人で、ぼくのこと、なんやかや。1時間後には「共同戦線」樹立。「55歳にもなって、いつまでも若い格好しているんじゃない。トシ相応に、身奇麗にしなさい」と。相方から常に指示、いや助言を受けています、はい、「髪の毛が少なくなってきたのだから、きちんと整髪しないと」とか「いくら洗濯しているからといって、色褪せたシャツを着ていると」とか、大切なのは心ではあるけれど、しかし、汚い印象を持たれる、過小評価される、などなど。同じセリフを母親が吐く。相方、得意満面。「ねっ、わたしだけが言ってるんじゃないでしょ」とでも言いだけに。当方、完璧に劣勢、てゆか、孤立。黙って頷くしかあるまい。この「三者面談」の帰途、相方は「床屋へ行くこと」をはじめ、さまざまな助言、いや、要求、いやいや「命令」を。そりゃそうだよなあ、お墨付きもらったんだもの。
まったく女ってやつは……。

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2007年9月12日 (水)

おぼっちゃまくん

さすがに「戦後レジュームからの脱却」を唱えた政治家である。見事な引き際。感服した。出処進退は自分で。なるほど、こゆことだったのか。ひとの迷惑省みず、百万人といえども我行かん。強い信念の持ち主なんだね。ん? なんだ、野党代表と同じメンタリティじゃないか。あぁ、だから、思わず「党首討論を断られちゃって~」とのグチが出てしまったんだね。うんうん、わかるよ、そりゃツライよね。まあ、しかし、これで、後世に名を残すことになったわけで。お慶び申し上げよう。
午後1時ちょうど、我が相方から、一報がメールで入った。ぼくは、とある団体の創立記念式典を取材していた。「んもぉ、仕事中だということは知っているはずなのに」と内心で毒づきながら、文面を見て、驚天動地。もうあまり長くはないと思っていたけれど、まさか、このタイミングでとは。そこに参加の200人ほど、誰もまだ知るまい。ふふふ。情報独占の密かな笑みを覆い隠し、まずは記者仲間に伝言ゲーム。
実は、その集まりに、このあいだの選挙で同じ党の候補者に蹴飛ばされてしまった前議員、来賓で。乾杯も済んで懇親宴にうつっていたので、そっと近づく。さすが、この人も政治家、すでに承知。その表情が「そうなんだよ、驚いたよ」と語る。同じテーブルには団体の幹部たち。「何々?」と。速報は、あっという間に流れていった。ある企業のトップは「えっ!?」と絶句。また別のトップは「安倍さんって誰のこと?」と。まさかの思いが、一国の総理の名に結びつかない。それほどの衝撃。閉宴の挨拶では「まさに政界の一寸先は闇」との言葉も。
式典後、次の催しまでの小憩、官邸での記者会見をワンセグによりリアルタイムで見るぼく、その周囲からは「何で今なんだよ」「所信表明演説をやったばかりじゃないか」「辞めるなら選挙に負けたときだったろうよ」などなど、率直な意見が聞こえてくる。一様に呆れ声。みなさん、そこそこの会社の経営者たち。おそらく大半は政権与党支持者ではないかと。ヤバイぞ、総選挙。
それにしても、政治家ってスゴイ。かの前議員、閉宴を待たずに席を立つ。そりゃ、のんびりメシなんか食ってる場合ではないよね。去り際に、ぼくに近寄り、握手。えっ!? うんうんと頷いている。あ~、ニュースを伝えてくれての謝意か。まいったなあ~、ぼくは、当該選挙区の有権者じゃないんだけど。支持政党も違うような気がするんですけど……。ま、いいか。向こうも、具体的な意味があっての振る舞いではないだろう。意味があるような、ないような握手、だけど、意味があるんだろうなあ、政治家にとっては。
何人もの国会議員・地方議員に取材したり、あるときは委員会で質問されたり、会ってきた。ぼく(ら)とあまり変わらないと思える人も少なくないけれど、なかなかイイじゃんと好印象の議員にかぎって選挙で落ちるんだよね~。おもしろい。多くは、やはり、よくわかんない人たちだ。不可思議な存在である。ある勉強会に遅れて来て僅か5分で去っていく大物代議士、本人出席のその5分に価値があると主催者に説明されても、理解できない。「永田町の論理」というやつなのか。納得できないぼくは、その町の住人になるつもりがないから、わからないままでもいいけどね。

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2007年9月11日 (火)

高みの見物

ワールドトレードセンターには、一度だけ、昇ったことがある。ニューヨークへの取材のおり、目的地は国連ビルだったが、そのあとだったか前だったか、インタビュアーの作家氏が知人を訪ねるというので同行した。そのオフィスが何階だったかは忘れた。40か50階か、相当に高かった。たしか、やや曇っていて、見晴らしの良さは堪能できなかったと記憶する。もっとも、エンパイアステートビルの展望台にも上がったので、摩天楼は実感できた。もちろん、この界隈は、通りから見上げるだけでも、ほとんど空が見えないわけで、日本ではなかなか味わえない体験である。
いまなお思い出すのは、しかしスカイスクレーパー(skyscraper)の素晴らしさではなく、地上を歩く人の姿が判別できないほどの高さで仕事をしていると、どうなんだろうか、という「妄想」。観光客としての驚嘆など一瞬のこと、「すごかったね」で終わるだろうけれど、地上100メートル、200メートルの高みで、たとえば「消費者のニーズは何か」とか考えても、どこか絵空事のような気になりはしまいか。「一人ひとりの痛み」なんて、まるで遠い世界のことのように思ってしまうのでは? なにしろ、さすがに「空をこする」ことはないものの、たなびく雲を眼下に見ることができるのである。どこか「現実感」が希薄になる、そんな可能性を考えたのだ。
高い所は、人間の本能として恐怖を感じるものだろう。へっちゃらさ、と豪語する人も珍しくないけれど、ぼくもかつてはそうだったけれど(トシとともにダメになってきていて、いつだったか東京タワーの大展望台ですら、ビビった)、それは、ホモサピエンスとしての根源的な属性に反しているように思う。なんか、不自然なんだよね。まあ、そんなことを言っても、現代の日本では100メートル級の超高層ビルがぼこぼこと建っているんだから、個人的な感性だけでは、文明批評にもならず、何の意味もないけどね。
でも、最近、テレビの番組で「高所平気症」という言葉を知って、驚いた。「恐怖症」の反対で、高さについての恐怖心が薄い症状を指すのだ。一例として、高層マンションで育った子どもがなりやすいと考えられているとか。つまり、20階30階の家で生活していると、高い所に慣れてしまうらしい。そのため、ぼくらが普通に想像するようには、怖いという感覚がもてないのだと。それだけなら特には問題ないみたいだけど、結果、恐怖心がないため、転落(死)の予防にならなくなるわけだ。そりゃそうだ、高い所は怖いという前提があって初めて、気をつけよう、落ちないようにしようと思うわけで、それが、2階程度の恐怖心なら、そんなには注意を払わなくなる。
いま住んでいるのはマンションの1階なので、平屋と変わらない。子どものころも平屋。以前は、5階が最高だったかな、それほどでもない。だから、「平気症」はピンとこない。実際、学問的に確立しているものでもないだろう。けれど、「怖さを知らない」ということが、比喩ではなく、物理的に存在するとしたら、それこそコワイ。いつかも書いたけれど、最近の小学生あたりが「死ぬのは怖くない」と明言するのにも似て、それは「生まれ変わりを信じている」との理由はあるにしても、この「平気症」も、なにやら、相当に気味の悪い話である。

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2007年9月10日 (月)

999

「999」といえば「銀河鉄道999(スリーナイン)」だろうが、それほど熱心な読者ではなかった。ちょっと時期がズレてるのかな。調べてみると、漫画の連載はぼくの在米時代のようで、そのためか。もちろん、いまなお語り継がれるほどの大ヒットした人気作品である。かなりの知名度があるはずだ。
で、平成9年9月9日、記念列車が走った。そのイベントにちょっぴり関わった、はずなのだが、あらまあ、どうしたことでしょう、ちゃんと思い出せません。わずか10年前のことなのに。ふうむ。そのあたりのエピソードを書こうと思ったのだが……。当然、ネット検索してみたが、「品川から御殿場へ」は行った記憶がないし、ほかの記述も、ぼくの経験とは違う。たしか、「銀河鉄道」が、あの宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に関連するというので、その地元・岩手方面でのこと、だと思うんだけどなあ。当時の関係者とは、その後、疎遠になって、いますぐに確かめる術もない。
覚えているのは、前年、つまり1996年(平成8年)の段階で「来年は平成9年だから」と、「999」の可能性に気づいて企画を始めたこと。「1999年にもできるぞ」などと、大いに盛り上がった。そして、当日、いわゆるコスプレになるのかな、メーテルの格好をした女性が列車に乗り込んできたこと(正直に言うと、似てなかった。ちょっとガッカリした)。断片的には、いくつかのピース(具体的な固有名詞もあるのだが守秘義務に絡みそうなので自粛)は浮かんでくるのだけど。いくらなんでも、こんなに曖昧では、なにも書けない。残念。おまけに、確認に手間取り、9日のうちにアップできず。あ~あ。
思うに、ぼくには、おそらく、あまり思い出したくない事実なのかもね。実はもっと深くコミットする見込みだったのだが、思惑と違ってしまった「うらみ」みたいなものが記憶の淵にある。この前後、韓国に出張した。あるソフトというかシステムの視察で、これはもう少しちゃんと覚えているけれど、結果「モノ」にならなかったので、オブラートに包まれた状態。その1年か2年前にもソウルへ行っているが、楽しいビジネストリップではなかったので、封印。それでも、事実そのものは消去できないので、ときたま苦い味が蘇る。
アジアへは、あと1回、香港・桂林の旅があるが、残念ながら枠組みとしては、ステキな思い出ではなく。でも、10年以上も前の中国はまだ貧しく、途上国の常か、日本円は価値なく、しかしドルは立派に通用した、との「事実」が懐かしい(桂林から香港に戻る際、空港で離陸寸前の飛行機トラブルに見舞われ足止めを食ったぼくら数人は、先発組に電話しようしたのだが、すでに「出国」していたので誰ももはや人民元を持っていなかった。1本の電話が架けられない!  日本円ならある。両替所は、しかし拒否。香港ドルもダメ。理由は知らない、というか、中国語なんだもん、聞き取れなかった。香港返還前だったから、それは理解しよう。でも、世界に冠たる我が祖国の通貨だ、YENだぞ、と叫んでも詮無し。たまたまぼくが米ドルを所持。これは見事に利いた。あっさりと人民元に替わり、宿泊予定の香港のホテルと連絡が取れた、という次第。バブルは崩壊していたが金融危機以前だからなあ~なのに日本円の信用力ってこんなものなのか、と「世界の常識」を実感した)。
話の主題が変わってしまった。きょうは、このへんで。あぁ、明日は「9.11」か……。

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2007年9月 7日 (金)

嵐の夜に

前項で、気軽に「マザコン」と書いた。けれど、これって実は、相当に複雑な心理状態のようで、シロウトの生半可な知識で語るとヤケドしそう。もう少し深く触れたいとは思うのだが……、常連さんはご存じのように、当方、月の初旬は修羅場で、とても余裕がない。さらに、いささか気の遣う取材が2件あって。その原稿を急いで書いて。そのうえ、個人的にドタバタとする要因もあったりして。いやあ~天候同様、現在の当方、大荒れ状態です。で、はい、それゆえの現実逃避モード。独り言、とりとめもなく。

先日、この地に移ってきて4年になった。つまり、2回目の賃貸契約更新。この「更新料」というやつ、性格がよくわかんないけどさ、負担であるのは間違いなく。2年後にまた必要になる。イイ歳していつまでも借りてるバアイではない? ふぅむ。まあ、それはそうなんだけどね……。
かつて衝動的にマンションを購入した経験があるが、あまりに向こう見ずな振る舞いだったので、いろいろと不都合あり、数年で手放すことに。バブルの入り口で、もうちょいあとに売却なら儲かったかも。ま、後知恵ですけどね。そのあと、幸いにも格安で一戸建てを貸してくれる奇特な知人あり、庭も広くて、念願の飼い犬にも恵まれ、ついつい長居。その大家さんの都合により、引越し。そこにも、陽当たりがよくないなど不満はあったのだが、知らず知らずのうちに10年。こうして振り返ると、けっこう一箇所に長いんだなあ~。ただ、移動の際に、かなり直感的、というか、まあ、正直な話、熟慮しない。
ひとつには、都心に住む両親の家の存在(当然ながら、昔はぼくも住んでいました)。長男だからとの、あっさりした理由だけではないけれど、いずれ受け継ぐことになるのだろうと勝手に思い込んでいて。だからか、郊外に庭付き戸建てを、資金の無さは無視して、持とう、いや持たねば、それが男の本懐、といった意欲に欠けるわけで、すべては仮の宿などと思いつつ、いつのまにか半世紀。誤算は、なんて言うと怒られそうだ、両親がまあまあ長寿なこと。つまり、はい、あの家は依然、二人の終の住処なんですよね。恵比寿ガーデンに近い、立地最高のマンションで、居住30年余、もはや、そこから離れる意思はない。「いまさらイナカになんか」と父も母も。
こちとら、千葉に骨を埋める決心をしたわけではないけれど、相方との兼ね合いで、当面、いや当分、ここに居る。中年のぼくなりに、ゴミゴミした環状線の内側(この表現、通じる?)に住むのは、ツライとも思う。となると、その時期は神のみぞ知るところだが、いざ遺産相続することになったら、さて、どうしよう……。売ればいいとも思うが、一人が残れば、そうもいかず。あの親が同居するとも思えず。ぼくも、嫌だしぃ。もったいない話だ。ギリギリまだ若いと言えたであろう10年前なら、喜んで引っ越しただろう。なにせ、アクセスが便利。終電は気にしなくていい。早朝の取材も平気だ。映画館やら病院やら、文明の「利器」が周囲にあふれる。ほぼ目の前には都バスの停留所。都内を縦横に走る公共交通機関、地理をまるで知らないトーシローのタクシー運転手を心配する必要もない。老夫婦の場合は無料だし。
とはいえ、しかし、10年後の今日、自宅で原稿を書き、仕上げたデータは、画像も含め、ネットで印刷所へ、あっという間に送信され、校正紙は翌日必着の宅配便で届き、あとは電話とメールで、無事にコトは完了、暴風雨も関係ナシ。都心に住まなければならない理由を見つけるのは難しい。なんといっても、相方とわざわざ遠く離れて暮らす必然性、ないわいなあ~。
さて、関東上陸の台風9号、そろそろ通り過ぎようとしている。当方も、目の前の仕事を、右から左へと受け流す、とはならないまでも、いつまでも「運転見合わせ」してるわけにもいかず。さっさと片付けよう。

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2007年9月 3日 (月)

「さそり座」の女

またもやカノジョの話。というか……。初恋は、そもそも、いつか、つまり相手は誰か、規定するのはなかなかに難しいと思うけれど、ん? そんなことはないのかな、ふつー。ぼくの場合は、小学校低学年時の同級生(あはっ、オフクロと同じ名前だ。漢字表記もまったく同じ)だとしてもいいのだけど、生家の隣に幼馴染みも居て、こちらも同学年だから、つきあいはもちろん彼女とのほうが先になるわけで。意識したのは、さてどちらが早かったか、半世紀を越えたいまとなっては曖昧だが、いちお、この幼馴染みとしておこう。
言おうとしているのは、思春期の入り口で少しの間、遠距離恋愛みたいな関係だったその彼女が「さそり座」であること。日にちも記憶している。そして、小学校高学年のときに、ほんわりとした感情を持った相手も、正確な誕生日は覚えていないのだが「さそり座」だった。前項も含めしつこく登場するカノジョ、はい、「さそり座」です。で、もちろん(?)結婚相手も「さそり座」。ほんでもって、祖母も、オフクロも、やはり「さそり座」なんですね……。
ここまで、ひとつの星座に囚われていると、因縁めく。当然(だと思うけど、そうでもない? いや、やはり当然だよね)知り合ってすぐ誕生日を尋ねはしないから、何かの「お告げ」に従ってのことではない。それに、祖母・母については、こちらで選んだ結果ではないし。幼馴染みが「さそり座」であると知っても、とくには因果関係を思いはしなかった。気になり始めたのは、本格的な恋愛となったカノジョが「さそり座」とわかってから。母親、そのうえ祖母とも一緒なんだから、そのころの「マジック・ワード」である「マザーコンプレックス」の影に脅かされるわけで。現代でもそうなのかなあ……、男は「マザコン」と言われるが嫌なものだ。いまのぼくは、もはや、そんなことにこだわらなくなったけど。そのカノジョとの結婚を一時は熱烈に願っていたわけだから、もしうまく成就していたら、3代にわたり「さそり座」の女になっていたところだ。いったんは、その可能性(危険性かな)はなくなったわけだけど、でも、結果は、ねっ……。
いくらなんでも、カノジョとの恋愛が消滅した経緯に「さそり座」は関係ないけれど。たぶん。だと思う。よく「マザコン」だと指摘された。指摘? 正しくは、非難、悪口、揶揄、軽蔑、そんな類だけど、ま、恩讐の彼方ということで。なんにしても、ぼくが何か、カノジョの気に入らないことをしでかしたりすると、「それはマザコンだから」とソーカツされたものだ。で、「違うっ!!」とムキになって否定するが。否定すればするほど、決めつけられた。30代か40代か、いつしか、すべての男はマザコンさ、と結論するに至ったが、20代だもの、自分に自信なんかないもの、恋愛の何たるかもわかっていなかったもの、「マザコンで何が悪い」と開き直る勇気など、なかったさ。
ぼくは、フロイトにもユングにも詳しくない。だから、深層心理学的にそれを考えることはできない。一般に日本では、母親依存とか、またはフェチとして語られることが多い。いきおい、否定的な意味をもつわけだ。でも、女性にもマザコンはあって、それってけっこう肯定的に見られているみたいだが、ヤバイと思うんだけどね。いずれにしても、何かに強く依存するのは不健康だよなあ。ぼくは今回、繰り返し「さそり座」という単語を使ったけど、実際には「星座占い」みたいなものには「血液型」も含め、まったく組していない。
とはいえ、さらに相方までもが同じ「さそり座」だと、いささかコワクなるが、本ブログ愛読者はご承知かと思うけど、幸い(?)「うお座」である。ホッ。蛇足ながら、「うお座」の性格をネット検索してみたら、「あなたは、同情心が深く、不幸な人やかわいそうな場面に出合うと放っておけない」とか「やわらかく優しい心の持ち主」だとか。あはははっ。当たってる……。そうだよね、アイボーさん。

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2007年9月 2日 (日)

「ケイちゃん」

8月が去り、さあて~名実ともに秋、とはいかない。あと2週間あまりはまだ暑さが残る。なにも「予測」しているわけでなく。暑さ寒さも日彼岸まで。先人の教えである。9月1日は言うまでもなく防災の日だが、そのことはおいといて。2日は、戦艦ミズーリでの降伏文書調印の日で、62年前のこの日、公式に第二次世界大戦が終結した。8月15日に日本はポツダム宣言受諾を表明し「負けた」わけだが、戦闘というものはそう簡単には停まらない。ソ連の攻撃は続いたし、この半月あまりで戦死者の数がさらに増えたことを思うと、切ない。
あまりに切ないので、話題を大幅チェンジ。9月2日はまた、あのピンク・レディ「ケイちゃん」の誕生日でもある。「ファン」である。カッコつきなのは、かなり偏っているからで。名前の「恵子」は本来「啓子」、この「啓」が我が「hiperk」の「k」。つまり、小生の名前の一字「啓」と同じ、ということ、それが一点。さらに、ケイちゃん、何回か触れた、若き日のカノジョに、たぶん、似ているのである。増田恵子も本日、50の大台に乗ったわけで、ざっと30年も経てば、相当に変貌したと言えるだろうが、似ていると感じたのは、30年前のこと。いまは? さぁ~。なにせ、かの「シンデレラ・エクスプレス」がラストシーンだからなあ……。これ、1977年9月の出来事。振り返れば「終わりの日」となったのだが、さらに1年近く「余波」が続いた。「初デート」から足掛け7年。思えば、壮絶な「闘い」だったような気がする。
「恋」って、べつにぼくが宣言するまでもなく、ある種の「たたかい」だよね。2つの自我が激しくぶつかりあう。その火花一つひとつが、互いの「想い」であり「愛」だと、ぼくは思う。キレイな火花は楽しい思い出。でも、火傷もする。けっこう痛かったりするんだよね、免疫無いし。だけど、何度も衝突するうちに、角は丸くなる。その丸さは、何かを理解しあったという満足感。ひとつふたつと増えていく。やがては、滑らかな石となって、部分的に融合が始まって……と見通していたのだけれど、あまりに激烈だと、石そのものにヒビが入ってしまって。互いの「意思」が壊れてしまう。若さというものは、程度を知らない、未熟さの代名詞でもあるから、ついつい、ぼくは、大切なモノを破壊してしまった。その歴史を語れば、1年分のブログでも足りまい。
恥ずかしきことも多かれど、なかでも、あの朝は……。自宅から大学まで徒歩圏のぼくが、わざわざ遠くの(カノジョの家のほうには近い)街にアパートを借りて、「同棲ごっこ」。ケータイもなければ固定電話ですら設置するのに大金が必要だったあのころ、連絡が疎になり、息子の行状のひどさに業を煮やしたオフクロに踏み込まれた。午前中ではあったが、ぼくら、まだ寝床の中だったし。いやあ~面目ない。もちろん厳しく叱責された、が、しかし、母親というものは、おもしろい。帰り際、3人で買い物に。そして、ぼくらには手の届かない刺身を買ってくれた。あの優しさは、いったい、何だったのだろう。いまさら訊けないよね。でも、いまのうちに……。

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