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2007年8月30日 (木)

「進化」は「善」か

またまた大層なタイトルです、ご容赦。最近、とあるブログにおじゃました。先達いわく「人間は進化したのか」と。アマノジャッキーの小生なら、「退化したんじゃない?」と言うところだが、さらに突っ込んで「進化はした、だけど、それって善いことなのか?」と問いたいと思う。
いつかも触れただろうけれど、新製品が果たして「良い物」なのか、はなはだ疑問である。戦後に限って当初は、モノそのものが不足していたから、衣服も食べ物も、そして住居も、市場に投入されたものは大歓迎。センスが悪かろうが不味かろうが部屋が狭かろうが、出せば売れた。そのうち日本も豊かになって、でも相変わらず提供されるものを黙って消費した。そこに、CSなどという概念はなかった、というのが小生の持論。つくり手が満足していただけ。ただ、長く、たぶん戦後50年間くらい、この、つくり手の満足は、使い手の満足と、ほぼ同一だった。だから、ニーズを満たすという意味では齟齬はなかったと思う。
たとえば、テレビ受像機は白黒からカラーへと進み、見る者の喜びに応えてくれた。だけど、それは技術上の変化に過ぎず、使い手の側に立っての進化ではなかったろう。チャンネル変更がリモコン化されたことは視聴者の心理に大きな影響を与えたことは言うまでもないが、そうしたビヘイビアについては別途。画面がフラットになろうがビデオが組み込まれようが、そんなことは大したことではない。こちら側の根本的な「欲求」(ウォンツ)ではなかったと、ぼくは思う。
ところが、バブルを経験したことで、我が祖国には「格差」が明確に生まれ、日常の風景のなかに顕在化し(明らかに「育っている」が、さておき)、それによって欲求度合いもバラけてきた。カラーテレビは大型化したけれど、6畳一間では無意味。かつては20インチで「でかいっ」という実感があったよね。いまは小さく見えるから、驚くけど、でも、我が家にもある28インチ程度で、まあ十分だ。しかし、20畳とかの広大リビングに住める層なら50インチは、むしろ必須かな。はるか昔、室内でフリスビーができるアパートが珍しくもない国に住んでいたぼくには実感できる。そうなると、液晶やらプラズマやら、いくつかの選択肢が生まれるのも必定。やっと買う側の欲求が反映するようになってきた。
それでも、しかし、新しい製品を無前提にウエルカムしていいのか、自信がない。少し前、ぼくは「デジタルの時代」について触れ、「アナログをどうするのだ」と愚痴った。その延長線で、時計を考えると、論点が明瞭になるか。アナログの時計とデジタルのそれとでは、使い方が異なる。「am02:03」は「午前2時3分」で間違いないが、アナログでは「2時ちょっと過ぎ」、同様に「07:31」は7時31分というよりは7時半だよね。時刻を知らせる機能に何も変わりはないけれど、デジタル表示は、2つの針による古くさい方法を放逐することはない。ぼくらは通常、1分刻みでは生きていない。
パソコンの進化は「フロッピーディスクドライブ」の標準装備をデリートした。でも、ぼくには必須機能であり、わざわざ外付けFDDを購入しなければならなかった。アプリはバージョンアップのたびに便利な機能も付加されるが必要な機能が消えてしまう(ぼくだけの感想ではないと思う)。ウチの扇風機には首振りの角度調整機能がない、風量調節は細かくできるのに。言い出したらキリがない。
話は家電製品だけではないのだが、そこに限定しても、昨今、不要な機能もしくは本当に必要なのかと疑問符がつく機能を加えただけの「自称」新製品の多いことよ。液晶モニターの技術はスゴイと素直に思う。が、何にでも液晶画面を付ければいいってもんじゃなかろう。リモコンは便利だ。でも、本体では操作できない機能って、いったい何? リモコンをなくしたら/壊したら、その機能はまったく無意味。どころか、たとえば「標準録画」しか選択できなくなり「3倍録画」が使えなくなる。どうにもこうにも不便ではないか。
つまり、進化の一方で、間違いなく「退化」は起きている。または、進化の「ツケ」を払っているとも言えるわけで、ということは、進化というものがまったき善とは、思えなくなるのである。コトは、たかがリモコンのレベルではないだろう。あらためて書きたい。

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