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2007年7月

2007年7月31日 (火)

さらば文月よ

選挙の結果は予想通りの期待はずれ。詳しく語る気がしないが、せっかくだから、一言だけ触れる。ぼくに言わせりゃ、自民の大惨敗も民主大躍進も所詮、かつての自民党・福田派(グループ安倍)と田中派(グループ小沢)との派閥争い。島根のドンを破った女性にしても父親は自民党出身(河野グループ)の政治家。コップの中の嵐にすぎない。保守合同以前の民主党・自由党の2つの流れまでさかのぼっていいのかどうかは専門家ではないので語らず。でも、ま、そゆことでしょ(岡山の虎退治をした姫は市民運動出身と聞くので議席奪取の意味は大きいと言ってもいいけどね)。
現在までの自民党政権って結局は派閥による「連立内閣」だと考える当方にとって、仮に現在の民主党が衆議院で多数派となっても、連立の構成内容が変わるだけで、新鮮味なし。なんたって「自社さ」てのもあったくらいだからね。共産党でも出てこない限り「歴史的」なんて言葉は使いたくないなあ。あぁ、いまの社民党が天下を取ったら、ま、大事件だけど、そんなん、どっちにしても不可能だからなあ……。言い換えると、民主党による政権交代くらいで大騒ぎの必要なし。参議院での第一党にずきない。衆議院でも多数派となれば、そのとき初めて、騒ぎましょう。それにしても、年金問題の語る価値すらないバカさ加減は多少やわらぐだろうけれど、ネットカフェ難民やらケータイ日雇いがなくなるような、格差の拡大に対する妙手があるとも思えないし。テロ特措法の延長は防げても、憲法九条の命運は風前の灯だろうし。そうそうあっさりと、我が祖国に根本的な変化など起こるまい。さらに別な言い方をすれば、だからこそ、さっさと政権交代すればいいのに、そのていどの変化すら好まないこの国の民意って……。
いったい、何を恐れるのか。そんなにも変わることがコワイのだろうか。目の前のささやかな幸せなど、人間の一生においては、実のところ砂上の楼閣であり、たしかに3億円あれば大概の問題は解決するが、しかし、金で買えないものもたくさんあるというのにね。人の気持ちには、本当にマニュアルなんかない。答えなど存在しない。いや、答えはあるが、人の数だけあるのだ。つまり、他人の成功体験など、役に立たない。失敗事例は、相当に有効だけどね。「他山の石」とは、すぐれて名言である。だけど、賢い人間なんて(ほとんど)いないから、いくつもの失敗を繰り返す。繰り返しながら反省し、意義と教訓を学び、成長する。そう、変わっていくのだ。そもそも、変わっていかなければ、人は生きられない。永遠のものなど、ない。
あらら、政治についての俗っぽい話のはずが、なにやら……。スピリチュアルな7月の掉尾を飾るに相応しいかも。

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2007年7月29日 (日)

もうひとつの蛇足

「空前絶後」と書いたが、実は、もう一回、似たような経験がある。このときは、連れ合いの亡父の「守護」を感じた。ふうむ、ぼくって、なかなかにスピリチュアル?

義父は警察官だった。一人娘の結婚相手が新聞記者であることに、猛烈に異を唱えた。業界に明るい人なら承知だろうが、この2つの職業は「犬猿」の関係なのだ。ぼくは、結納の際、初めてかの地に出向き、義父に「敵前逃亡」された。つまり、すっぽかされた。一度も会えないままに式の当日を迎え、初顔合わせ。何を喋ったか忘れた。いや、会話は無かった。ぎこちない挨拶だけ。その後、ときおり顔を合わせても、「ご無沙汰です」「お元気ですか」「帰ります」くらい。言葉を交わすことは少なかった。
娘が誕生して、つまり孫ができて、やっと氷解が始まった。少しずつ、氷は水に変わっていった。人並みに、会話が成立するようになった。まあ、ほとんどは孫/娘絡みのネタにすぎないけれど。しかし、娘が7歳のとき亡くなった。冷たい水が温まりだした矢先のことである。もう少し時間があれば、素直に「お義父さん」と呼べただろう。時候の挨拶以上の何かについて語り合うことができただろう。実際、入院中には、ちょっぴり「交流」らしきものも始まっていた。ま、その入院に「先」がないことを知っていただけに、ぼくの心中は複雑ではあったけれど。
そのころ、仕事でアメリカ東海岸に2度行った。土産は、ブランデーとクロスのボールペン。前者は、お酒が好きだったので、元気になってまた飲めますように、と。とても喜んでくれた。病室にずっと置いてあった。2品とも、ついに使うチャンスは訪れなかったけれど。形見になった。

それから1年あまりして、ぼくは交通事故に遭った。仕事帰りに乗ったタクシーが高速の出口で渋滞に引っかかり、本線上で停車。そこへ11トントラックが突っ込んできたのだ。わき見運転だったようだが、一直線の見通しのよさが、かえって出口渋滞を見過ごす結果になるとかで、事故多発地帯だと、あとで聞いた。当然、ぼくは後部座席。そこへ背後からの、さほどの減速なしでの衝突。
ぼくは実は、眠り込んでいた。その瞬間、激しい振動で床に投げ出され、覚醒した。地震の夢を見た、というのか、一瞬の感覚で、そう知覚しただけのことかもしれない。まさに、呆然自失。タクシーの中だったことに気づき、すぐに、とんでもない事態だと悟った。窓ガラスは横も後ろも粉々。ドアはひしゃげていた。夜だったが、トラックらしき大型車両に真後ろからぶつけられたことは判った。そして、左肘のあたりの痛みを認識。でも血は流れていない。骨折も無さそう。命に別状は無い。
運転手も、ぼくの安否を尋ねる程度に無事だった。細かい会話は忘れたが、とにかく、外に出ようということになった。ドライバー氏は問題なかったが、ぼくの横のドアはどちらも開かない。ガラスの無くなった窓から、這い出た。そのころのぼくも太めだったが、意外に苦労なく。けっこう広いんだなあと妙に感心した。
そして、全容を把握。ぞっとした。タクシーの後部トランク部分は大破。原型の半分くらいの長さに縮小していた。これで、よく助かったものだ。大きな怪我をしていないことに驚いた。運転手は、どうやら打ち身激しく、痛がっている。が、こちらは、とりあえず肘だけ。まあ、そのあと徐々に、首筋あたりに、いわゆるムチウチ症状が出てくるのだが。結果的には、ほぼ無傷と言っていい。現場検証の警察官には「よくぞ無事で」と、半ばあきれるように驚かれた。
このあとの、40歳にして初めて救急車に乗ったりとか、持ち始めていた携帯電話が深夜の連絡に活躍したりとか、さらにはリハビリの模様など事故の顛末も、まあ、いつか書くかもしれないけれど、いまは割愛。
言いたことは「無傷は奇跡的」。その翌日、事情徴収のためハイウエイパトロールのオフィスに出向き、白昼の日のもとで事故車を見たとき、あらためて身震いした。めちゃくちゃに壊れていたのだ。そして、「助かった」よりは「助けられた」と。「何かに護られた」と感じたわけである。それを亡き義父に求めるのは、こじつけかもしれない。ルームミラーで事故を予期した運転手のほうがなまじ身構えたためムチウチ激しく、惰眠のぼくは夢の中、ノーテンキだったから無傷という理屈はつくけれど。だけど、ねっ。

完璧な蛇足・本日は参院選。午後8時を過ぎたら、この話題で書こうと思っていたが、ヤメ。なんか、つまんない。投票には行くが、結果が見えている。ぼくが期待するモノではなさそう。予想外のことがあれば、触れてみよう。

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2007年7月28日 (土)

長めの蛇足

これも「神がかり」な話である。渡米し、就職して2年目だから26歳のとき、亡き祖父の存在を感じる一瞬があった。空前絶後というか、55年生きてきて、そんなことは、ただ一度だけ。いや、「占い師の宣託」に比べたら、もっとオカルティックだろうね。

その日も、せっかちなぼくは、ロサンゼルスのダウンタウンの横断歩道で信号が変わるのを少しイラっとしながら待っていた。現在でもそうだが、信号待ちが嫌いなのである。でも、待たずに済ますことは不可能だ。仕方ない。で、せめて、歩行者用の赤が青になるのを待ちつつ、目の前の車道を走るクルマ用が青から黄色に変わるのを見つめる。黄になれば次は赤、つまりクルマは停まり、人が歩ける。単なる待ちの姿勢から、歩き出す態勢をとる。そしたら、赤を認識して即、渡り始めることができる。ほんの1秒か2秒の差に過ぎないことは承知している。信号無視する勇気はない。ただのイラチ。周囲に先んじる、そのたった1秒が心地良いのである。
果たして、黄色が点った。さあ……。会社の近くの横断歩道、切り替わりのタイミングは承知している。目の隅で赤を待つ。行くぞ……。心の中でカウントダウン。3、2、1……何かが、ぼくを、止めた。人間ではない。誰も、ぼくの洋服の裾など掴んでいない。でも、何かに制止された。秒読みは、ゼロ。赤になったのを認識。でも躊躇した。目の前の信号も青に変わった。周囲の人垣が動き出そうとしていた。だけど、動けない。何かが、ぼくをフリーズさせた。
と、白っぽい乗用車が1台、突っ込んできた。猛スピードではなかったが、あっという間に、視界の右から左へと流れて消えた。ぼくの、すぐ目の前でのことだった。いつもなら……。そう、ふだんのぼくなら、秒読みが1の段階で一歩踏み出している。ゼロの時点では、二歩目から三歩目の態勢になっているところだ。
間違いなく、その信号無視のクルマに撥ねられていた。最低でも、接触していた。命に関わる事故が発生していたか、それはわからない。打撲程度で済んだかも。でも、同様に、大怪我の可能性も否定できない。最悪なら……。ずっと後になってからは、まさか死ぬようなことはなかったろうとは考えた。が、いずれにしても、無事ではいられなかったはず。それだけは確実だ。
さて、ぼくを「救った」のは、いったい何だったのか。正解は、もちろん知らない。知るはずもない。はっきりしているのは、「何か」に止められた、それだけ。その「何か」に、ぼくは、祖父の「意思」を感じてしまったのである。論理的になんか説明できない。単なる直感。そう感じた、としか言い様がない。あえて理屈をつければ、「せっかく、ばーさんのところで、占い師のおっさんに遇って、耐えろとアドバイスされ、それによって運命が変わり、ついにはアメリカで新聞記者になれたのに、ほんの僅かなガマンができずに、その新しい運命を無駄にしては、いかんぞ」というような、そんなメッセージを、10年以上前に他界した祖父から受け取ったように思った。
祖母の話をしたけど、もちろん祖父にも溺愛された。初の直系男子だもの。庶民レベルでも、そりゃ、熱望したさ。強烈に可愛がられた。ただ、ぼくが中学生までの、まあ短い時間だったけど。
横断歩道を無事に渡りながらシリアスなことを考えていたわけではない。ホッとした、よかった、胸をなでおろした。そんなていどだ。だが、以来30年もの間、ずっと、その体験を引きずっている。記憶にしっかりと留めている。それからは、横断歩道を渡る際には周囲に注意するようになった。いまでも、せっかちさはそのままだが、周りをチェックしながら、赤から青への切り替わりのタイミングを計っている。青になっても、まだチェックする。原発事故でも死にたくはないが、交通事故死は嫌だ。「ぼくの最期」にふさわしくない。それが、祖父の「遺言」だと、勝手に思い込んでいる。

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2007年7月27日 (金)

「緊急避難先」

ぼくが、いわゆる「神仏」を信じない人間であることは、ここでも何度か触れたと思う。若いうちに、本質的な内容などまるで理解していないのにニーチェの「神は死んだ」のみを記憶にとどめてしまったりマルクス・エンゲルスなんかにハマってしまったり、そのくせ、そのころはまだ、正月の初詣で「合格しますように」とか「カノジョとうまくいきますように」とか他力本願も極まれりのムシのいい願い事で頼ったり、競馬で「万馬券を当てさせてくれ」と祈ったり。げに、若さとは恥だ。
それはさておき。20代前半で、自助努力なしには誰も助けてはくれないことに気がついた。遅いか早いかは、知らない。が、神の存在を持ち出しても苦難には克てないと思ったのは事実(だと思うが、なにせ、ぼくは「人は自らの過去を捏造する」信者だからなあ……)。
それはさておき2。「不思議な縁」とか「理屈では割り切れない何か」を全否定もできない。記憶に残る最初の出来事は、23歳の秋。前項「緊急避難先」の話である。

70年代前半、大学を卒業せず社会に出たぼくは、いきなり「学歴」の壁を痛感。なんとか就職したものの、あっさりと自分の将来に絶望しかかっていた。仕事は、まったく楽しくなかった。輝いていそうだった職場は、実は重い灰色に満ちていた。旧態依然。「理」より「情」。組織とはそういうもの。なべて新入社員は、現実と理想とのギャップに直面するものだろうけれど、あっという間の幻滅。「こんなはずでは……」。同僚との交歓やら、部分的にはエンジョイできる面もあったけれど、「こんなの、ぼくの人生じゃない」と。生意気ではあった。そのうえ、かのカノジョとの仲も「長い春」的要素を帯び始めていて、いわゆるマンネリ化。
9月下旬のある日、ついに出社拒否症候群に襲われる。会社に通じる道へ左折することが、どうしてもできず、直進。そのまま、新幹線に飛び乗り、大阪へ。祖母の家に、逃げ込んだ。もちろん、60過ぎのばーさんを心配させていいわけがない。事情は晒さず、休暇だと言い繕った。祖母は歓待してくれた。「おつくり(刺身)を買いに」と、近くへ出掛けた。ほどなく戻ってきて、驚愕の発言をする。まさに「驚愕」という単語は、こういうときのためにあるのですね。
祖母には、そこそこ信頼している占い師がいた。折々に占ってもらっていることは聞いていた。まあ、寡婦となって10年くらいか、いろいろと相談事の必要があったのだろう、その延長だとは思う。「お告げに従え」といった強圧的なことは口にしていなかったからね。その人物に、たまたま道すがら遇ったのだという。聞けば、路上で遭遇することなど初めて。その後もなかったらしいが、そのへんは保証の限りではない。とにかくも、孫が来ていることを告げる。すると、その占い師は、いきなり「お孫さんは、いま重要な分岐点にいる」と発言したそうだ。
祖母は、ぼくの遁走を知らない。多少は、何か変だなと気づいていたかもしれない。それにしても、そのあたりを察して占い師を頼ったわけではない。それ以前に、孫の将来とかで何かしら相談していたことはあるかもしれないから、ぼくの存在そのものは認識していてもおかしくはない。ただ、そのとき、その人物に、ぼくの現況に関する十分な情報は、伝わっていない。それだけは確実だ。なのに、その占い師は、ぼくの抱えている内面にグサリと立ち入ってきたのだ。
「あと3か月、我慢せよ」と諭したらしい。そうすれば、道が開かれる、とも。すべては間接伝達なので、実際の正確な言葉はもはや不明だが、「どんなにいまの会社が嫌でも3か月は辞めないで耐えろ」と、ぼくは受け止めた。どのような新しい可能性がもたらされるのか、具体的な道筋は全然見えなかったけれど、年が改まれば「運命が変わる」といったような言い方をされた。
ぼくは、信じた。いや、本当に信じたのかなあ……、いろいろと行き詰っていたから、何かしらの打開策を求めていたわけで、とりあえず、そっちの方向にいってみるか、というような消極的選択だったろう。あと3か月勤めれば1年になる。最低1年くらいはね。時代はまだ1970年代だし、フリーターなんて言葉・概念はなかったし。積極的に信じたのではない証拠に、祖母のもとに1週間、ぐずぐずと居続けた。
そして、やっと帰京。会社に詫びを入れ、最初の3日間くらいは無断欠勤だったので減給処分なんぞ食らって、同期が先に飛び出て行ったのを横目に、必死に暮れのボーナスを待った。予想通りの僅かばかりの金額を目にし、決心をさらに固めた。新年を迎え、勤続1年となり、退職願を出した。
退社から2週間ほどで、ぼくは渡米する。76年2月。明らかに、ぼくの人生は、ひとつの曲がり角を曲がった。結婚相手と出会うのは、その5か月後。前にも述べた、カノジョとの「シンデレラ・エクスプレス」まで、あと1年と7か月。憧れの新聞記者という仕事を手にする、2年前のことである。
あのとき、逃亡先の大阪で、あの占い師の「助言」を得ることがなかったら? あの段階で会社を辞めていた。それは間違いない。いずれアメリカへ渡ることはあったとしても、まずは次の仕事を探しただろうし、どこかにもぐりこんだはずだ。時間の流れはかなり変わっていただろう。なにより、カノジョとの関係が、果たしてどうなっていたか。消滅への道はやはり辿ったかもしれない。でも、もっと曖昧な日々を続けていただろう。「シンデレラ・エクスプレス」の裏側にある状況は回避していたかもしれない。となれば、女房となる女性に遭遇しなかった可能性は、小さくない。出会いはしても、その後の展開はかなり異なったろう。だとしたら、いまの相方とも……? まあ、あまり「if」の話ばかりしてもね。
とにかくも、いったいどんな運命の扉だったのか、その総括はまだできないが、ひとつの大きなドアを開けたのは間違いない。「何か」を信じたくなるのも、無理はないでしょ? って、「何か」は、いったい何なんだろうなあ……。

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2007年7月26日 (木)

祖母を偲ぶ

この7月には、もうひとつの命日がある。祖母である。すでに90歳を過ぎていたから、こちらは大往生なのだが、初孫の小生、葬式で号泣した。我が母はじめロートルの娘たち(息子はいない)は、つとめて冷静に振る舞っていたが、当方には、生まれて以来ずっと、最も愛されたという実感をもてる相手である。それに、その1年前に伴侶を喪っていたしね。何の因果か、祖母もまた、キリスト教スタイルで見送られた。
ぼくは、何回か書いたが大阪生まれで、祖母(そして祖父)の家で、産婆さんに取り上げられた。父親の転勤により1歳半で東京に来るのだが、毎年かならず、夏休みと正月には帰省した。故郷に帰りたい一心で、休みの宿題は常に早めに仕上げたものだ。小学生のときに、半年ほど祖父母と3人で一緒に暮らしもした(その事情はまたの機会に)。中学生になり、祖父が他界し、以来、40年近く独り暮らしだった祖母。関西圏に住む娘たち(つまり当方の伯母叔母)はもちろん足繁く通ったけれど、気丈な明治生まれは、ついに同居に頷かなかった。最晩年の10年ほどは、さすがに足腰が弱くなり、人の手に多少は頼ったが、さいごまできちんと生きていた。
ぼくが社会に出てからも、仕事のついでに訪ねていくと、いつも大好物の肉(かの地では「牛肉」の意味)や刺身(「おつくり」と言う)などを用意し歓待してくれた。泊まったことも数知れず。出張旅費を浮かせる目的ではない。「緊急避難先」に選んだ(詳細は追って)こともある若輩時代はともかく、それなりに一人前になったあとは、当然のように「宿泊費」を渡したしね。

その年の3月、大阪出張の際に会った。しっかりはしていたけれど、孫で正しく認識できるのは、我が息子のように可愛がったぼくだけだったらしい。他の孫(つまり従兄弟たちね)が見舞いに行っても、ぼくだと錯覚していたと聞く。そんな祖母なので、ぼくが顔を見せると興奮してしまうようだ。その夜は寝つけなくなって困るのだとか。老いると、そうした「不規則」なことが身体には良くないそうだ。とはいえ、「先が長いわけじゃなしね、あんたに会えるのは大きな楽しみなのよ」、おばたちのグチは、実母への愛情の現われなのか、うれしそうなトーンだったが。
その日も、共にコーヒーなど飲みつつ、祖母の体調への配慮もあって、小1時間で辞した(そう、ぼくのコーヒー中毒は明らかに遺伝である)。年に1回か2回か訪れていたが、そのころにはいつも「これが最後」と覚悟していた。でも、その4か月後だから、予兆などありはしない。普段とさして変わりはなかった。ただ、少しだけ特別なことといえば、発刊されたばかりの自著を持っていったことだろう。新書1冊を読めるとは思っていなかった。「独立・開業がどうしたこうした」という内容も理解できまい。でも、本の表紙にある、孫の名前を見てもらいたかった。果たして喜んでくれた。が、案の定、反応は地味だった。よくわかっていないのだろうと、思った。それでもいいや。
通夜の席でだったか、おばから意外なことを聞かされた。本の「あとがき」を読んでいたらしいのだ。ぼくは、そこで、連れ合いの喪失に触れていた。その事実は、祖母には内緒だった。祖母は、男の子は産んだらしいが育たなかったと聞く。孫のぼくを長男に模したのかもしれない。とにかく、溺愛だった。母が「わたしはこの子(ぼくのことね)を育てていない」と、自分の母親に向かって軽口をたたく光景は、以前からときおり目にしていた。それを否定しなかった祖母。そのぼくが男やもめになったことを、天寿を全うしようとする祖母に告げる意味はない。ところが、驚いたことに祖母は、とにかくラストの1ページまで目を通したらしい。そして、知ってしまったのだ。
ここからは非科学的な話になるが、早めにあちらへ旅立った女房には、あまり知り合いがいないわけで、祖母は、彼女をあの世で独りにしておくのは可哀想だと、後を追ったのかもしれない。その身をどれほど案じようと、ぼくのために祖母が、残念ながら、生きて力になれることは、ほとんどない。その命をもって、孫への最後の愛情を示した……、そんな考えは、アブナイだろうけれどね。最期は、まったく苦しまず、「静かに息を引き取る」という表現のままに、まさしく、眠るように逝ったと聞けば、なんとはなしに、そう思いたくなる。いいトシのおっさんが、享年92歳のばーさんの遺影を前に泣きじゃくっても仕方ないよね。こうして想い出を振り返っているだけで、目頭が熱くなる。うむ、睡眠不足かもしれないけどさ。

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2007年7月21日 (土)

デジタルの時代に

ビデオデッキが壊れた。ったくぅ~。まだ新しいんだぞ。1年とちょっと? 2年は経っていないはず。やっぱ●●製のはアカンなあ、と愛国者ぶっても仕方ない。メチャ安かったし。一番最初にVTRを買ったのは、たしか25年前、30万円近くした。四半世紀を経て、機能の違いはあるけど、十分の一以下。スゴイぞ、世界に冠たる日本の製造業。と言っている場合ではない。修理に出すくらいなら新規購入だ。
仮想電器量販店に出掛ける。あっちゃあ~。VTRなんぞ、ないじゃん。売り場はDVD一色。かろうじてDとVとの一体型。でもなあ、プレーヤー専用Dはもう持っているし。どうせなら250ギガHDD内臓の地デジ対応が欲しいし。そんな金はないし。かといって、廉価Vを買ったら妙なリピーターになってしまうだろうし。いまさら高機能のVに4万5万も出したくないしなあ。悩んだ。
世の中、デジタル化の方向。それは承知。パソコン、ネット、ケータイで仕事をしている身。文句はない。だけど、この大量のビデオソフトは、どうするのさ。映画とかなら、Dソフト化が進んでいるから、大して困りはしない。ま、いささか腹は立つけど。だって、たとえば、お気に入り映画「エイリアン」、1・2・3を(4はまだなかった)ちょい高めのテープにまとめて録ったんだぞ、保存用として。だけど、割引デー「つたや」なら200円×3=600円で済むようになっちゃったじゃん。だいいち、テープ保存にマメじゃないから、きっと劣化してるだろう。
テレビ番組も同様。必死に予約録画して(かつては野球中継が無神経に延長するもんだから大迷惑だったし)保存なんかするより、少し待てばソフトが出る時代。まあ、リアルタイムで見ているときは、それが真っ当な連ドラだったりすると、たとえば「アンフェア」とかね、ついついVに録ってまで毎回欠かさず見たいと思ってしまうのだが。とはいえ、「ひょうきん族」の最終回は、消したくないしなあ。ソフト化されたけどレンタルがないんだもの、買うには高すぎるし。

そこで、近くのリサイクルショップへ。20代半ばのにーちゃん、話好き、上記のグチを表明すると、大いに賛同、いわく「DからVに戻ってきるお客さんの声、最近多くなってますよ」。うんうん。どうやらDでの録画はVほど簡単ではないようだ。失敗も多いとか。中古のビデオデッキ、仕入れると即売れるらしい。たしかに、Vの棚には3、4台分の空間あり、商売トークではなさそう。お勧めの、4年落ちの国産品(オリジナルで7万円程度だと)を5980円で購入。3年もてば御の字。1年だと悲しいけど。
レジで支払いしながら、音楽プレーヤーに言及。これもデジタル隆盛。でもカセットテープはどうしたらいいの? アナログからの変換は、そりゃできるけど。その方法を、親切にーちゃん、詳しく教えてくれたのだが、そんなメンドイことは願い下げだよ。それに、これもD/Vと同様、そこそこ名のあるアーティストの楽曲ならCD化されるので、結果オーライ。でも「オールナイトニッポン・たけし復帰第一声」なんて絶対にソフト化されない。ま、こういうものなら手間ひまかけてデジタル化してもいいけど。
ぼくは、ITやデジタル家電にも抵抗なく入り込むが、そうそうは取り込まれていないつもり。CDコンポ愛用のかたわら、レコードプレーヤーも買い直した。アナログにも利点はたくさんあるのだからね。でも、それらは「旧い」くせに安くない。冒頭ではあっさり結論づけたが本来、修理の道を選びたいのだ。捨てるに忍びない。「捨てる技術」とかが一時、流行ったけれど、どうにも罪悪感がね……。
そんなわけで、ウチには、壊れたビデオデッキ2台はじめ、部分的に機能不全のCDラジカセ・コンポが4台、クラッシュしたPC1台、動かない扇風機1台、かろうじて再生するカセットレコーダー1台、まだ使えるプリンタ2台、着られなくなった洋服類ゴマン点……。んとぉ、片付けられない性格? つまりは、怠惰なだけか。

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2007年7月20日 (金)

荷物持ちの自省

8階のお中元コーナーで相方と待ち合わせ。後れを取った小生、やや慌て気味で、エレベータに乗った。首都圏とはいえ、東京のみ一極集中、当地のデパートは空いている。平日の午後だし。同乗者は、ご年配の数人だけ。このまま階上まで直行してくれるといいんだが……。
なぜか、2階で停まった。ハコの中央に杖を突く老婦、「4階ですか?」と、誰にともなく。声はしっかりとしている。似た年恰好の女性が「違いますよ」とサポート。ちょっぴり若手のぼく、内心で、見りゃわかるだろ、表示ランプは「2」じゃん……。果たして乗り降りもなく扉が閉まる。なんで停まったんだよぉ~と、なおも心中で毒づく。相方を待たせてはとの思いゆえ。いや焦り? もしかして恐怖?(^^;)
そして4階。親切女性が「4階ですよ」と教える。足下の不都合な老婦、またもや「4階ですか、4階ですか」と。これはもう独り言だよな~。4階であることを認識したのか、しかし、礼の言葉一切なく、ゆっくりと出て行く。ふと思う、目も悪いのか。だが、自動アナウンスが「4階です」と知らせている。ちゃんと聴けば、わかるはず。親切女性の言葉は聞こえたのではないか。
エレベータが再び動き出す。上昇するハコの中で、ふっと。我が母を思い、もしかしたら耳も不自由なのかもしれない、と。トシを取ると難聴気味になってしまうみたいだ。母との会話は最近、ついつい怒鳴っているかのような。すると「そんなにキツク言わないでよ」と嘆く我が母、ワガママ……。
とにかくも。階数表示がよく見えず、ヒヤリングにも問題があるのだとしたら、くだんの老婦のその振る舞い、文句の対象としてはバチあたりというもの。そう思い直し、改めて、エレベータを点検する。うん、まったく不親切だ。階数の表示ランプは、何色といえばいいのか、明かりの色というか、薄いベージュっぽいような、オフホワイトかな。これは、けっこう見にくいかも。もっとハッキリした色にすればいいのに。
階数を知らせる案内も、とくには大きな声ではない。ハコの中がざわついていたら聞こえなくても当然だろう。このときは、辺り構わずお喋りするオバサン族なく、まあ、静かとはいえる状態。けれど、オフクロには聴きづらいかも。
ドアが開いても、そこが何階なのか、すぐには判断できない。目と耳との能力が低下していたら、認識のしようがないことに気づいた。たとえば、乗り降りの床面に、デカイ文字で「8階」とか明記しておけば、かなりの助けになろう。そういう補助が施されていないのは、では、何故か。
簡単なことだ。真の意味で「ユニバーサル・デザイン」を考えるやつなんか、いないんだ。世界に冠たる日本の、老舗の力を保持しているはずの、三越ですら、この体たらく。デパートのトップ・ブランドは、どこを照らしているのか。かっこよく「バリアフリー」という言葉で、そんなフリしているかもしれないけれど、担当者は若くて「五体満足」で、視覚・聴覚に何のトラブルも抱えていないのだ。脳力は不自由だとしてもね。
いや、エラソーに言っているつもりはない。ぼくにしても同罪だもの。かの老婦の戸惑いを、他人事とみた。自らの問題として、認識することができなかったんだ。冒頭に書いたように、瞬間、「なんだ、このバーサン」というのが正直な気持ち。ぼくも、実のところ、老眼で悩み始めて数年、耳はまだ何とか健在だが、ほんの小さな段差に躓くこと頻り、そんな年齢に達しているというのにね。はたちのころの若造のぼくには、まったく想像すらできなかった現実。齢を重ねるとは、こういうことなんだね。
蛇足・「荷物持ち」と書いたが、実際には、デパートから発送するので、手ぶらでした。お赦しを、相方。

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2007年7月19日 (木)

「いまのきもち」

ようやく一息つける。夏季の修羅場のど真ん中で、我が祖国は台風と地震とに見舞われ。己の命は自ら守るしかないことを再認識させられる。気晴らしに政治屋どもの悪口でも言いたいところだが、公職選挙法に抵触するのもイヤなので、またの機会に。(そこそこの)知り合いが立候補していて、そのあたりの話も書きたかったのだが、タイミングを逸した。いまはマズイわな~。
モーレツに作業をこなしているとき、アタマは、ある意味で、思考停止している。天下国家より、目の前の仕事だから、何かを考えているふりはしても、それは、経験則で反応しているだけ、と断定しては、いささか言いすぎだけど。まあ、たしかに、脳内HDDは高速回転しているわけだ。でも、何かを創造しているわけじゃない、古いデータを読みに行って、それを新しいフィールドにペーストしているにすぎない、って意味でね。だから、実は、修羅場ってるとき、ブログのネタをたくさん思いつく。
「だから」は、説明不足かな。よーするに、クリエイティブな欲求不満が生じる、らしいんだね、パターン作業ばかりだと。ところが、当方、原稿を書いたりするのが「作業」だから、そこから解放されて、またキーボードに向かって文章をひねり出すのは、チトつらい。もう文字は厭きた、という感覚。ここらが、メンドイ。まったく異なる職業だと、気持ちを切り換えられるみたいだ。だけど、ぼくは、「延長線」なんだよね。気分転換にならないわけ。
そんなわけで、大好きな中島みゆきの曲(本日のタイトルの「いまのきもち」)を聴きながら、モニターを見つめているのだが、この間に灰色の脳細胞に浮かんでいたはずの「書きたいこと」たちが勝手気ままに霧散しちまって、なかなか再結集=凝縮してくれない。拡散したままで、はや、明け方が近いではないか。いかん。明日は、お中元のために相方とデパートへ。オフだからと惰眠を貪ってはいられないのだ。ここんとこずっと相次ぐ注文に応えている相方も、やっと、時間をつくりだせたようだ。といっても、一瞬の隙狙いだから、のんびりデートしている余裕はない。つまり、相方の荷物持ちです、はい。
ホント、ぼくら、クルマで10分弱の、スープが少しだけ冷める程度なのに、まるで遠距離恋愛みたいで。「恋愛」と言えるだけ、マシ? まあ、そうかも……。

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2007年7月13日 (金)

鶴亀さんの本

ロサンゼルスつながりで。というには、いささか間があいたが、当方ただいま、年に2度の大修羅場。でも、毎日のようにチェックにいらっしゃる方、ひとりふたり、もう少し。応えたいけど、その余裕なく。こんな情報で、お茶を……。

何よりも名前にインパクトのある、当時はコーディネーターという肩書きが珍しい、だから何をやっているのかよくわからないけれど、異国の地・ロサンゼルスで日本企業、現地企業の支援活動、つまり「便利屋さん」みたいな仕事をされていて、いまもベンチャー支援などを精力的に、在米40年を超える、鶴亀彰(つるかめ あきら)さんが本を出版。
『海に眠る父を求めて 日英蘭奇跡の出会い』(7月17日刊、学習研究社、四六判、1890円)
還暦を過ぎてから、あるきっかけで、潜水艦に乗っていて戦死した父親のことを調べていくうちに、太平洋戦争で戦った日英蘭3隻の潜水艦の関係者たちの間に、恩讐を超えて交流が広がっていく様子を描いた感動の実録ストーリー、ということらしい。詳しくは、『海に眠る父を求めて』公式サイトhttp://www.tsurukame-book.net/
「出版記念の夕べ」が7月24日(火)午後6時、東京・恵比寿で開かれる。呼び掛け人には知り合いがゴロゴロだが、うかつにも鶴亀さんの上梓を存じ上げなかった小生、一参加者として出席せん。
鶴亀さん、還暦をはるかに越えて、なお、優れた技術を持つ日本の中小企業のニッチ商品(製品、技術)を米国市場でメジャーにする「YUGOBI」(融合美)という、インターネット放送局の立ち上げのために奮闘中という。ふうむ、うかうかしてられぬ。って、とりあえず、いまは目の前の仕事を片付けなければ……。

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2007年7月 4日 (水)

Fourth of July

別に記念日つながりのつもりはないのだけど、7月4日は米国の独立記念日。だからどーした、ってこともないが、しばらく住んでいたアメリカ、いささかの思いはある。1976年は建国200年祭で、その年のアタマに初めて本土に渡り、いったん帰国して再渡米というとき、せっかくだからと7/4に間に合わせたかったのだけれど、フライトが取れず、3日遅れ(7/7)になった。惜しいことをした。もっとも、その前後1年あまり、かの地は「バイセンテニアル(bicentennial)」で大いに盛り上がり、多少のお祭り騒ぎを共有できた。蛇足ながら、その2月の「コーチャン証言」はリアルタイムで見た。が、中古テレビの音声のせいではなく、何を喋っているのか聴き取れず、後の「ロッキード事件」の幕開けとは、予想だにせず。
翌年の7/4はよく覚えていない。そのころ、日本では、カノジョの身にとんでもないことが起きていたのだが、そんなこととはツユ知らず。学生仲間と一緒に遊び呆けていたと思う。蛇足ながら、そのあと8月に、ビザの更新もあっていったん帰国、前述の「シンデレラ・エクスプレス」と相成った。30年前か~若かった。愛を語っていた自分が恥ずかしい。
次の年、つまり78年の夏、すでに働いていたので、社長宅に社員一同が招かれ、丘の上から打ち上げ花火を楽しんだ。たぶん、ディズニーランドのそれだったのではないか。蛇足ながら、この当時、そのカノジョとの仲はすでに壊れていて、ぼくは仕事に打ち込んだ。というと聞こえはいいが、憧れの新聞記者の職に興奮しつつ、上司に毎日、しごかれていた。必死だった。あのひたむきさが、懐かしい。

アメリカという国には、嫌いなところも少なくないが、好きな面も多い。「7月4日に生まれて」のような名作をつくるかと思えば、「インデペンデンス・デイ」では勝手に「人類の独立記念日」にしてしまうゴーマンさ。にもかかわらず、この映画では、かの「エリア51」を事実として扱うジョーク(といえるかどうか微妙だけどね)にシビレた。
帰国して20年以上が過ぎ、最後に訪問してからも10年余。そのあいだに、在米時代の知人・友人で名を成なした人が少なくない。なかでも、毎晩のように酒を飲んで騒いでいた松久信幸さんは、いまや世界に冠たる、日本食チェーン店のオーナー・シェフだもんなあ~……。
たった1冊の本しか上梓していないぼくは、まだ終われない。

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2007年7月 2日 (月)

記念日に乾杯

本日は記念日……不謹慎? いえいえ。きょうは、相方の母親の誕生日なのです。ねっ(^^;) 人生って、不可思議でしょ、ドラマチックでしょ。テレビドラマなんかで、そんな設定したら「ご都合主義だ」とか批判されそうだよね。で、何かプレゼントしようかなと思いつつも、一方で忌日なので、そこんとこ、いささか複雑。まあ、一日早く1日なら、と考えてみたんだが、相方いわく、誕生祝いは早めたらいけないらしい。母親によれば、縁起が悪いことなんですって。ふうむ。何かしら謂われはあるんだろうけれど、にしても、そんな細かいことを……。とはいえ、目上の人のそうした考えを、あえて無視するのもね。

もうひとつのほう、これもね、6年も経ってしまえば、そろそろ記念日でいいんじゃなかろうか。1年、2年のうちは、そんな冷静なこと言えなかったけれど。相方とぼくの事情を知る親しい女性は「彼女もあちらで、いい人が見つかってよかったねって思ってるよ」と。ぼくの悲しみをよく知る立場で相方とも酒を飲む仲なので、その言葉の優しさは本物だ。素直に従うべきだろうね。たしかに、あのひとは、優しい心根をもっていた。大の犬嫌いなのに、ぼくがどうしても飼いたいと言い張り、ついに産まれたての柴の子犬がやってきたら四六時中、世話をしたものだ(おかげで、こやつ、ぼくが御主人様だと認識しなかった)。後を追われることなんて、けっして望んでいないし、落ち着きを取り戻したいまのこのぼくの状態を何よりも喜んでいるだろうしね。

さて。今週から来週にかけて仕事がかなりの修羅場を迎える。気持ちを切り替えて。過去より現実。書かなくてはいけない原稿が山積み。ブログにかまけている場合ではないのだ(^^;) 幸い(だろう)相方も仕事が切れない。「今年の夏は異例だ」と悲鳴を上げている。景気回復がどうやらホンモノだということか。「最高益決算」も「不祥事」にも関係のないぼくたちだが、てゆか、ビンボーひまなしだけど、仲良くやっていきます。って、なんのこっちゃ……。

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2007年7月 1日 (日)

人生はドラマチック

以前にもここで触れた、学生のころのカノジョとは7年つきあって、フェイドアウト。ん~、「自然消滅」では、いかに30年前の過去のこととはいえキレイ事すぎますね。実際には、いろいろとありまして。修羅場ではなかったけど、ケンカ別れ以上に、劇的なラストだった。当時はまだなかった「シンデレラ・エキスプレス」シーンばりに、とある新幹線の駅での、東京行き最終のドア越しに見た姿。そこでエンドマーク。その際、いささかメンドイ理由のため、カノジョのアリバイをつくる必要があり、親友の女性に助けを請わなければならなかった。デリケートな事情なので、信用できる女性でなければいけなかったのだ。その女友達は2年後、恋人になっていて、さらに1年後には結婚相手に。
そんなわけで(正しい使用方法ですね)、女房は、ほくの元カノの名前も何もかもを把握していた。会ったことだけはなく、実像は知らなかったが、ぼくらの恋愛プロセスをかなり承知していた。これは、夫の身としては相当にハンデで。まあ、勝手なことを言えば、結婚当初は、元カノとの「復活」を疑われたりして、シンドかった。仕方ないかもね。だって、ぼくは結局、そのカノジョに振られてしまい、メチャクチャ落ち込んでいたんだ。26歳、ひとつの失恋が人生のすべてだった。そんな失意のどん底から引き上げてくれたのが女房になる女性。それ以前から、けっこう気は合っていたので、よく一緒に遊んだ。短い期間だったが、同じオフィスで仕事した。正直な話、好きなタイプというわけではなかったけれど、結婚って、ライフワークだから、一時的な感情では決められないもの。
四半世紀を経て、似たような状況に見舞われるとは、予測どころか、妄想だにしなかった。生き別れと死に別れとの違いはあるけど。と、あっさり言ってはいけないのだよね。前者はともかく、後者は分が悪い。実際、相方も「女房を喪った中年男をわざわざ選ぶなんて」と諭されたみたい。でもね、ぼくも、そんなハンデをまたまた背負わされても……。前項でも書いたけど、周りは皆さん一様に、「火中の栗を拾う」相方の味方なんだ。やんなっちゃう。
このトシになると、しかし、周囲の反応も複雑なようで。若ければ、「おまえさんたちの仲はどうなってんの?」と、ストレートに訊いてくるんだろうが、仲間内では「年長者」、そうそう気安くは質問できないらしい。翁のような長老さんも、配慮に長けているから、見て見ぬふり。しかし、共に仕事を持っていて、そうした関係の人脈が重なっていたりして、不定期に開く集まり(飲み会)に揃って参加することの多い我々、そんなぼくたちの関係を、いつまでも暗黙の了解にしておくのも、少々かったるい。
ということで、長老の助言もあり、2年前の6月、その集まりの特別バージョンを開いた。ぼくら二人のために、その仲間たちが祝ってくれたのです。いわゆる「披露宴」ではないんだけど、「披露」には違いないので、ケーキ入刀なんぞ、やらされて……。なにせ、お互い、はるか昔の記憶で、まごついたりして。大きな花束を手にして帰りの電車に乗るのも、かなり照れくさかった。だけど、ささやかながらも、さまざまな気配りが感じられ、心の底から楽しく、うれしく、ありがたく。ドラマチックな恥ずかしさも、たまにはいいもんだなあと思った。何回もあっては困りますけどね。

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