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2006年12月

2006年12月26日 (火)

たまには日記然と

年に2、3回、こういう日がある。
12月26日、今年もあと5日。関東地方は朝から雨。「爆弾低気圧」とやら通過するので、大雨に注意とか。
昼過ぎ、銀行へ。昨日のうちに済ませておけばよかった。後悔先に立たず。
寒い。近くのアメダスによれば、このとき、わずか5~6℃しかなかった、昨日の最高が12℃だから、相当に寒く感じたのも当然か。
帰宅し、思わず暖房を入れる。が、雨足が強まるにつれ、比例して、気温が上昇に転じた。1時間に1度上がり、夜の6時にはついに15℃を超えた。
「報道ステーション」を見つつ、窓を開けてみる。生暖かい風がカーテンを揺らす。ベランダが広いので雨粒までは吹き込んでこないが。と、書いて、ちと不安。確認。ふうむ。床がなにやら湿っぽい。閉めようか。
おや、今夜でラスト、次回は年明け8日だとか。報道番組は、どうして年末年始に休むのだろうか。ニュースに休暇はないはず。実際、スポットニュースは無休。キャスターの都合? だって、この人たちに「仕事納め」「仕事始め」は似合わない。局のスタッフは会社員だけど、まさか、報道局に「月・金/9to5」? ま、テレ朝は独特だけど。でも、他局も同様だしね。
明日からはまた冬晴れか。掃除にもってこい。窓ガラス拭き、しないとね。
「それよりベランダよ」と相方。「ビンやら缶やら、汚い」。うん。不燃ごみの中でも、こういう分別・資源ごみの出し方、わかりにくい。以前の居住地では「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」と仕分けは2つだけ。ラクだったなあ。
さてと。たまには、その日のネタをその日のうちに。

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2006年12月24日 (日)

クリスマス・イブ

最近は、1年を振り返るテレビ番組があまりないような気がする。NG集やら総集編みたいなのはあるけれど、お笑いというのかバラエティの枠組み。報道的に、じっくりと、というのは流行らないのか。来し方行く末を、その年の終わりに検証することは必要だと思うのだが。どうも最近は、「感覚的」なものが優先されているのではないか。もちろん、テレビという媒体は「情緒増幅装置」ではあるのだけれど、それにしても、「煽り」が多すぎはしないか。

たとえば、「崖っぷち犬」やら「高い木に登って下りられなくなった猫」に対する大騒ぎは、どうにも違和感が残る。犬猫の命ももちろん大切だけど、かれらには「セーフティネット」があって、人間様にはないのか、と毒づきたくなる。たとえば、「拉致」は由々しき国家犯罪だから「北朝鮮」憎しの大合唱も当然だけど、「将軍様の奇行」ばかりをあげつらっても結局、事態は進展していないことをもっと冷静に論じる必要はないのか。我が国にとって極めて重要な外交問題なのに、いたずらに「いつ北から核ミサイルが飛んでくるか」の不安だけを煽っても、仕方あるまい。

『犯罪不安社会――誰もが「不審者」?』(浜井浩一・芹沢一也著、光文社新書)という新刊がでた。未読だが、待望の一冊。何故なら……。テレビで評論家(みたいな人)が「凶悪犯罪が激増している」と叫ぶ。「低年齢化」を憂う声も高い。たしかに、ワイドショーを毎日見ていると、この国はおかしくなったと感じるのは、あながち間違いとはいえない。しかし、一方で、犯罪件数は減少の一途をたどっていると、どこかで言ってたぞ。そう疑問に思っても、モニターの向こうにいるコメンテーターたちは「厳罰だ!」と主張するだけ。専門家による客観的な話を聞きたい、でも、なぜか、そうした情報は得られない。そんなイライラがずっとあるのだ。本書は、それを解消してくれるのではないだろうか。仕事も一息ついたので読んでみよう。

不安の多い社会であることに異論はないが、その解消策に、「目には目を」的な、報復の論理の色が濃いことに、わたしは不安を感じる。かつて米国に住んでいたとき、日系人のほとんどが銃を持たない事実を聞いて驚いた。合法的に武装自衛できるのに。そして日本に比べ治安が悪い犯罪がのに。何故? 「武器というものは持つと使いたくなるのだ、過剰に反応してしまうこともある。子どものいたずらによる暴発も恐い。持たないほうが実は安全なのだよ。こちらが武装していなければ、泥棒もモノは盗っても、命まではとらない」との明治生まれの日系一世の言葉は、いまも忘れられない。

蛇足。イブとはまったく異なる話題でした。だってクリスチャンじゃないもん。でも、チキン、食べました。はい。「チュートリアル」、面白かったなあ~。大掃除? ゆっくりと進んでいますよ。ゴミ予備軍が大盛り。収集ラスト日はまだ先だ。そういや「ラストラン」だけど、うん、たしかに強い馬だ、スゴイね。でも、だからって、たかがサラブレッドの引退に、感動のあまり泣き出すのは、どうして? みんな、いったい、何がそんなにも不安だというのだろう……。

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2006年12月23日 (土)

「やり残したこと」は何だろう

修羅場を脱した。事実上、仕事納めである。だが、2006年が終わったわけではない。大掃除という最後の難関が控えている。窓ガラス拭きやら何やかやも面倒な作業だが、なにより、自室。ここは聖域である。相方は、たぶん、いや間違いなく、手を付けたくて叶わず、相当に苛立っているはず。キレイ好きな性格からして無視するに辛いだろう。が、仕事に関するさまざまなモノが「規則正しく」散乱しているわけで、なまじ片付けられでもしたら、さぁ大変、何がどこにあるのか、わからなくなってしまう。カオスみたいな状態にみえても、それはそれで、ちゃんとハンドリングしているのだ。

と、強がりを言っても仕方ない。マーフィの法則ではないけれど、探し物に限って簡単には見つからず、自身、けっこう、このままではまずい、と思い始めているのではある。1年に1回くらいの頻度で整理しているのだが、なんと申しましょうか、怠惰な性格なのか、すぐに散らかる。商売柄、資料というものが次から次に溜まる。どれほどのデジタル社会になっても、紙はなくならない。随分前からキーボードで書いている。原稿用紙を使わなくなって久しい。だが、ニュースリリース(報道用資料)をメールでくれるクライアントは、いまなお珍しい。

まあ、それでも、写真を画像データで提供する企業も増えてきたのは確かだ。もっとも、数百メガの容量のあるディスクに画像たった1点、使用メモリ数メガ、というケースも少なくない。以前なら、そのディスクは「要返却」だったけれど、安くなったせいか、そんな「ケチ」なことを言われることはほとんどなくなった。それゆえ、使用済みディスクが集まってしまう。捨てるのは、心が痛む。1枚のフロッピーを繰り返し使い回して、ついには初期化して、という経験をしてきた。わずか1.3メガ。ちょっとした画像データを4枚のフロッピーに分割して、そのうえ宅配便で届けた、なんていう日々は、もはや昔話だけど。

ふうむ。ほら、また、過去を懐かしんで、掃除の手が止まる。大丈夫、除夜の鐘を聞くまでに、まだ1週間以上も残っている。それに、クリスマスじゃないか。しばし、リアルな場面から逃れて、楽しもうではないか、聖夜を。たまにはワインでも飲むか。あっ、しまった、冬至だった、柚湯に入るのを忘れた。ま、いいか、バス○○ンで代用。そだ、バス○○ンを買ってこなくっちゃね、風呂掃除はどちらの役になるんだろうか……。などと、他愛もないことを言いつつ、やっと年の瀬を実感し始めている。

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2006年12月18日 (月)

気高い富士の嶺遠くにのぞむ

同窓会に出た。いわゆる「高校の」なのだが、母校は中高一貫教育の6年制だったので「中学の」でも間違いではない。実のところ、中1のときの3組(「13R=ルーム」と称していた。「学級」は「ホームルーム」。今では当たり前のようだが40年前の当時としてはかなり珍しかったと思う)にいた同級生の集まりが母体なので、本来はそう呼ぶほうが適切かもしれない。つまりはクラス会。だったのだが、1年ごとにクラス替えもあって、卒業時には人脈も変化していたし、何より6年間も同じ学び舎にいたわけでもあり、連絡がつく者へと輪を広げていき、その課程でぼくも参加するようになり、人数も増え始めた。

そんなおり、13Rに在籍しながら中3で転校したため卒業生名簿に載っていなかった、当たり前だけどね、岩戸くんという同級生が作家の浅田次郎だと判明した。略歴の最終学歴は普通、大学を記す。クラスメイトのひとりが出版社勤めで、偶然、再会したのだ。「同じ釜の飯を食った仲」だ。直木賞を取った年でもあり、お祝いの意味も兼ねて声を掛けた。以来、「あいつがそうなのか」という好奇心も手伝ってか、20年ぶり30年ぶりの友も来るようになり、「11回生の同窓会」に。ここ数年は兼忘年会という形。もっとも、それでは出席したくても不可という者も少なくなく、実際、このぼくも修羅場を押してのこと、次回は夏にという話も出ている。

恩師も、当初は当時の担任だけだったが、他にも何人か出席。6年間教わった古典の教師が校長になり、招くようになった。呼びたい先生はまだまだいるのだが、残念ながら鬼籍に入られた方も少なくない。「紅顔の美少年」だったぼくらが、紛うことなき中年のオヤジだ。だいたい、ほとんどの恩師が退職している。「だって、来年はこっちが役職定年なんだぜ」と参加者のひとり。そう、55歳(ぼくは早生まれだからまだだけど)。ひと昔前なら定年だ。あのころ、「じーさん」みたいな年恰好の教師に対して「○○先生って××高校を定年退職してきたらしいぜ」とウワサしていた。前述の校長は、逆に、新任だった。ぼくらの在学中に結婚し、誰か聞き込んできたのか奥さんの名前を、授業中に連呼した思い出もある。

いまや、こっちが孫持ちになっている。少し早めの結婚なら子供が27、28という歳で、その次が生まれていてもおかしくない。少し前の会では、子供の教育問題に花が咲いたものだ。息子を母校へ進学させた友もいた。「いつのまにか超難関校になっていて、合格できなかったよ」と話すやつも。ウチは娘だからそもそも不可能だが、オヤジと同じ学校に行かせるのはイヤだなあ……。でも、気心の知れた学校は、教育崩壊の時代、安心できるのかもしれない。不参加の同輩の消息では「息子がニートになってしまって弱ってる」という話も。父親、つまり同級生は一流銀行に勤めているのに……。

当時の母校には、しかし、一般的な「受験校」とは異なる雰囲気があった。現役・浪人はともかく、ほぼ全員が大学に進んだが、名刺交換すると、在職30年のサラリーマン人生一筋の「カタギ」には名の知れた企業の「部長」級の肩書きも珍しくないものの、自営業の多いこと。社長と言えばカッコイイけどね、つまりは「ヤクザ」だ。デザイン系、カメラ系のフリーランスも少なくない。一部の席では「中小企業の悲哀」もトークテーマになっていた。もっとも、就職した大会社が「なくなった」というケースもある。まさに人生いろいろ。連絡のつかない者のなかには、悲惨な事例がなくもないだろう。今回は40人ほどが出席した。さらに数十人の所在はわかっているようだ。卒業生は300人を超える。

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2006年12月14日 (木)

「やり直す」ことは難しい

「ザ・フォッグ」を観た。言わずと知れた、でもないかなあ~、鬼才ジョン・カーペンター監督の1979年作品の、リメイク版である。期待した。DVDを待ちわびた。そして、裏切られた。ちっとも怖くないのだ。金返せ。時間も返せ。オリジナルは、めっちゃビビったぞ。監督は変わっていたが、カーペンターが製作総指揮で名を残しているので、あれから30年近く、CG技術も進歩したことだし、まさかホラーがコメディになってしまうなんてことはありえないし、スゴイ映画になっていると思った。前述した「ポセイドン」は特殊効果と引き換えに人間ドラマを捨て、失敗した。こちらは、ホラー以外の何ものでもないから、よもや二の舞とは予想しなかった。「フォッグ」は、ホラー映画のマイ・ベストスリーに入るほどの名作だし。

それなのに……。どしがたい、駄作だった。何かがひたひたと迫り来るコワサ、それがちっとも描けてないんだもの、がっかり。ホラーの走りみたいな存在で、当時、すでに「エクソシスト」が大反響、ゾンビものが生まれ、その後、「13日の金曜日」や「エルム街の悪夢」シリーズはじめ、続々と名作が世に送り出される。しかし、そうした、いわば恐怖の素がそれなりに明らかな映画と異なり、「フォッグ」は、その名の通り、無機質な「霧」が主人公で、もちろん、その裏側には人間の恨みや亡霊たちも存在するのではあるけれど、霧の視覚効果が恐怖心を煽った。ストーリーも複雑ではない。そのうえ、ラストに最後の悲鳴を誘発するどんでん返し的シーンも。ただの焼き直しでも十分なはずだった。

映画評のブログではないので、原因を探るマネはしない。ただ、リメイクというものは、想像以上に難しいものだと思い知らされる。「原典」を上回る好評がなかなか得られないようだ。「宇宙戦争」では文字通りのSFXの進化を見せつけられたが、一方で話が劣化。「日本沈没」は未見も、劇場に足を運ぶだけの意欲がついに湧かなかった。映像は(当然!)見事らしいが、ストーリー展開が酷いと聞く。「猿の惑星」2001年版は監督によれば「リ・イマジネーション」ということで、それなりの感激は与えてくれたけれど、やはり1968年版の衝撃には叶わない。「キングコング」はオリジナルが1933年だから2005年版の視覚効果が抜群なのは当たり前、たしかに目を見張る。映画としての出来栄えは良かったと思う。しかし、ぼくは1976年版のほうが好きだ。主演のナオミ・ワッツは好演だけど、76年のジェシカ・ラングの哀愁に満ちた演技の素晴らしさには及ばない。リメイクへの評価には、そんな、役者の要素も加わる。

筋書きがまったく変更されているのならともかくも、基本的には「ネタバレ」なのである。どれほど「化粧」しようと「素性」は割れているわけだ。生半可な化け方では、観客を誤魔化せない。CGなんて、所詮「メイク」にすぎない。たとえ妖艶な女性に見せようとも、役者が男だと判っているのだから、よほどの「トリック」がなければ、本気にできない。「三丁目の夕日」で、建築中の東京タワーをいかに実物らしく見せようと「絵」にすぎないことは皆、知っている。つまり、それらは、背景画なのだ。背景の前にある「何か」が本物らしくなくては無意味である。一部の例外を除けば、映画はドラマであろう。ドラマツルギーが命ではないか。視覚効果もCGも「背景画」にすぎないのだから、もちろん舞台装置もとても大切だけど、しかし、「本線」をきちんと演じてくれないことには、とても感情移入できず、騙されたことを喜べず。

同様のことは「お涙ちょうだい」映画にも当てはまる。「涙を誘う悲しいシーン」が効果的なのは論を待たない。しかし、その前に、たとえば「人の死」が悲しいのは「命」への賛歌があるからだ。「生」、つまり「人生」がしっかりと描かれていなければ虚構の「死」になど何の価値もない。昨今の「涙を誘う」映画は事前に、そうしたストーリーの肝が、バカみたいな前宣伝のせいで、ほとんど露見していることが多い。「ネタバレ」同然なのだ。「リメイク」を「ネタバレのやり直し」とするならば、古今東西の本格派推理小説の名作を手本にしろと言いたい。二転三転の大トリックよりも何よりも、優れた推理小説は「小説」としてまず成立している。仕掛けだけをどんなにCG活用でやり直しても、無意味なのだ。基本的な骨格が美しければ、何度つくり直しても、その美しさが翳ることはない。

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2006年12月 9日 (土)

戦争はあった

12月8日というと、どうしても、前項seiguさんのコメント中にもあるように、「日米開戦」のことが頭をよぎります。この国がかつてアメリカと戦争をしたことなど、思いもよらぬ人が増えてきているようですね。ウチは、以前にも触れたように、父親が「旧帝国陸軍軍人」なので、この日のことは、ぼくが幼いときから食卓の話題になっていました。でも、これも前述したように、体験の詳しい話は一切、父親の口から出てきません。せいぜいが、邦画で日本の兵士が銃をバンバン撃っているシーンで「あれはおかしいぞ、連射なんでできなかった。弾がもったいないからと1発ずつしか撃たせなかったんだ」とか、戦争実体験のない者が描く戦争映画のウソについて。

いまは亡き勝新太郎たちが主演の「兵隊物語」(みたいなタイトル)だけが「最も事実に近い」と言う父や、「授業が始まるとすぐに空襲警報で防空壕へ、という毎日だったから満足に勉強していない、だから知識なんてないのよ」と弁明する母、そして、2月1日だったか毎年「(昭和22年のシベリア抑留からの)復員記念日」を祝う家庭、戦争はけっこう身近でした。同級生の父親で、実際に戦地に赴いた経験のあるケースは少なかった。まして「捕虜」の体験など。そういえば「戦友」(だったかな)というテレビドラマ、真剣に観てましたね。

1970年代に、家族旅行でハワイに行ったとき、すでに本土も見てきていた父は、「こんな(物量豊かな)国と戦って勝てるわけがない」と、しみじみ口にしていました。たしかに、初の海外だったぼくの目にも、スケールが何もかも、我が祖国とは違っていた。日本では飲んだことのない果汁100%のジュース、安いステーキ(当時は「ビフテキ」と呼んでいましたが)、クルマはでかく、ハイウェイは片側4車線だったか。ビーチはキレイで、人が少なく。スーパーには、とにかく物が豊富で。名前の知らない野菜がたくさん並んでいた。

真珠湾では、ほとんど一言も喋らず。現在はどうだか知りませんが、当時、日本人観光客は少数で、ほとんどが身内を亡くしたアメリカ人。つまり弔問でしょうか。ツァーだからといったノーテンキな気分ではいられませんでした。ま、ワイキキビーチでは、はしゃぎましたけどね。(これも書いたかもしれないけれど)観光客相手ではない店で買い物をしたとき、日本語が通じず、「ガイドブックはウソばかり」と嘆き、そのうえ、10年以上勉強した英語も通じない。その「ショック」とハワイで見聞きしたことが、その1年後の米国留学の「布石」になったわけです。

敬愛する小松左京は、1960年代に『地には平和を』(直木賞候補)を書きました。同じころ『戦争はなかった』という短編も発表しています。どちらも優れた戦争文学だと思います。ただ、これらは「SF」というジャンルに分類されたためか、文壇の主要な賞を受けることはありませんでしたが。これ以外にも戦争をテーマにした作品は多い。1931年生まれですから、あの戦争は実体験ですね。大阪生まれで、外見がどことなく父に似ています。お互い太っているときですけれど。京大文学部卒で、それゆえ京大を志望したことがあります。偏差値的に不可能でしたけれど。

『戦争と人間』(五味川純平著)も、反戦の立場を超え、不朽の名作でしょう。映画化されたものも観ました。吉永小百合が可愛かった、とか、栗原小巻が色っぽかった、とか、不純な要素も含まれますが、ぼくは20歳そこそこ、高校や中学では習うことのなかった、初めて知る事柄の多さと悲惨さに、衝撃を受けました。中国(支那・満州)戦線が舞台で、父の姿をスクリーンの向こうに見ていた気がします。どうでもいいことですが、この映画、当時つきあっていた女性と一緒に。そんな思い出もあります。三部作ですが、全部を一緒ではなかったような。いや、だいたい、すべて同じ女性とだったのか……。

この映画、何度なく、テレビなどで放映されていて、繰り返し観ていますが、いつだったかなあ、戦後60年記念なら去年か、そのときは、地井武男扮する朝鮮人義勇軍(?)兵士(徐在林)が、戦闘で恋人を亡くし、かの地に埋めるシーンで、不覚にも涙しました。もちろん初めて。そんなことが、しかし、最近、増えています。昔に観た映画で泣いた記憶などないのに、久しぶりに再見すると……。半世紀も生きていると、いろいろな経験をするものですね。

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2006年12月 7日 (木)

あらためまして

一昨日の昼前あたりからココログのメンテが始まり、5日分は早朝というか、前日の深夜というか、アップしていたので、事なきを得ましたが、コメントにはレスつけられず、6日分も不可、という状態となり、「継続は力」も途切れてしまったので、ここで、仕切り直し。ご存じのように、タイトルには中島みゆきの曲名を援用、可能な限り、それに近い内容で記事を書いてきました。が、けっこう辛くて(^^;) そろそろ限界かと思っていたところ、タイミングもよく(^◆^) スタイルを変更します。無理を承知で付けたタイトルもあれば、この曲はいざというときに、と温存していたものもあり、ちょっと惜しい気もしていて、、、優柔不断なヤツですm(_ _;)/ が、ま、以降、自在に。

実を言えば、ちょうど6日は、かねて叫んでいる「修羅場」の第1弾のピークで、書いている余裕なく。さすがに、もぉアカンと内心で覚悟を決めていました。って、話がオーバーやなあ~(^▽^;) んでもね、続けていると、なにかしら「継続ハイ」みたいな感覚で。無理してもアップするぞとも。物理的にできなかったので、絶好の言い訳になりました。ホッ(^●^)

さぁて、修羅場はまだまだ続きます。いま一瞬の幕間ですが、年末まで走りっぱなしになります。やはり連日の書き込みは難しく。といっても、かつては、ホント、大晦日の寸前まで仕事していましたけれど、労働環境の改善された今日、関連の各方面も28日には仕事納め。よって、当方も、それまでには、すべての作業を終えることになります。年末年始は、今回、特段の予定もなく。以前の旅行記でも書いておこうかな、などと。

何の内容もなく、ただの「告知」というか「決意表明」というか、ですね。ご容赦。今後とも、よろしくm(__)m

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2006年12月 5日 (火)

あしたバーボンハウスで

知り合いのブログにコメントつけようとしたら字数オーバー。凝縮してアップしたが、もともとの文で、ここの1回分と気付く。しつこいが、いま修羅場ってるので、それを利用する。二度読みの方、ご容赦。話題のネタ元は「コークハイ」という飲み物。

その昔、つまり奇跡の高度成長期、海外出張の一時期多かった父の土産は「ジョニーウォーカー赤ラベル」こと「ジョニ赤」だった。やがて「黒」へと昇格しつつ、当時は珍しい名前のスコッチをいろいろと。サケといえばウイスキーが定番だった、そんな時代、若いぼくらにとっても同様で、どこで飲むかといえば、友人の下宿か「コンパ」。気軽なバーといった位置づけかな、みんなでワイワイとやるわけだ。居酒屋では、なかった。

いまみたいな全国チェーン店も少なかったし、どこか上司をグチるサラリーマン御用達の雰囲気強く、オヤジ向けと。小料理屋は、しかし、粋なんだけど敷居が高かった。実際、学生やガキの行くところではなかった。20代は「角」を愛飲、シャバに出てそれなりに稼ぐようになってから念願の「だるま」に。このオールドを初めてスナックでボトルキープしたときは、自分もオトナになったなあ~と感慨ひとしお。年上のママに淡い恋心なんぞ抱いたりして。だから、ロック一本槍。水割り? そんなヤワなもの飲めるか……。

閑話休題。土産が「ナポレオン」になったころ、出張先がアジアにシフトした。紹興酒はまだしも、返還前の沖縄から泡盛では、もともと下戸の父には辛く、渡す相手も難しく。家族には、変わったデザインのTシャツやら、チャイナドレスといった品々へ。と、海外は当方の担当に。カリフォルニアワイン、バーボンを好むようになるつれ、スコッチは卒業。帰国後は、いつのまにかファッショナブルになった焼酎がメインに。ウイスキーに接する機会も減っていった。ただ「フォアローゼズ」は好きだったなあ。

あるとき、新潟で地酒をごちそうになった。以来、日本酒党。ずっと、○○とか××とかのナショナルブランドしか知らなくて、そんなの全然ウマイと思わなかった。それが「雪中梅」で驚天動地、こんなに美味なのかと開眼してしまった。もっとも、日本酒はじっくりと味わいたい、楽しく酔いたいので、場所と相手とを選ぶ。仕事の付き合いなどでは、ウーロンハイとか梅割りとかが気楽。けっこうウマイしね。ちなみに、ウイスキーは水割りしか飲めなくなった。要するに、ぼくは酒に弱いのだろう。好きなんだけどね。
★あしたバーボンハウスで(1985)

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2006年12月 4日 (月)

with

実は当方、いま修羅場なので、Cさんとの海外取材の思い出話を続ける。
最も印象的だったのは、国際原子力機関の本部があるオーストリア・ウィーンでのこと。泊まったホテルは中レベルだったか、でも、こぢんまりとしていて感じは良かった。翌朝、時差ぼけで早起きしてしまい、どことなく山小屋風の室内で、窓から見た明け方の街の風景。こちらは3階か4階あたり、2階建てくらいの家並みが見渡せた。異国情緒たっぷり、空が白み始めたころなので、幻想的、というか、絵に描いたよう。木造ではなく、何だろう、石造り? どっしりとした感じを受けた。

ウィーンではもうひとつ、本場の本物のザッハトルテを食べた。15年ほど前のことである。グルメ大国日本でも、まだまだ貴重だったと思う。美味、言うまでもなく。そのウィーンへは直行便がまだなく、モスクワを中継。給油の間、機内にとどまるよう求められ、空気を吸うことはできなかったが、たしかにロシアの地に踏み入ったのだ。それだけのことではあるが。パリへの移動の途中、鄙で日本人ビジネスマンと遭遇した。製菓メーカーの課長サンだったか、甘いもの、いまならスイーツか、市場調査だとか。さすが。

ロンドン・ヒースロー空港では、入国審査に約2時間、行列に中東風の姿が目についた。観光客の風情なく。移民か……。その街は、ウワサどおり、霧の都とまではいかなかったが、どんよりとした雰囲気。朝食で、長年の習慣であるコーヒーを注文、失敗した。紅茶の国だった。たしかに、ミルクティは絶品。料理は……語れない。日本でもめったに会う機会のない首都圏在住の友人と、ちょうど赴任中だったので再会できたのも、うれしい記憶。

ずっと西海岸住まいだったので憧れの、ニューヨークには国連本部ほかの取材で2回。一度、大雪に見舞われた。身動きままならず。ロサンゼルス時代の友あり、案内してもらった。さすが現地居住者、旨くて安いレストランを知っていた。ワールド・トレード・センターにも行った。首都のスミソニアン博物館で、展示されている零戦を見たときは、ちょっぴり複雑な気分に。オノボリサンよろしく、ホワイトハウスの前を散策した。なにやら警備が厳しいような。まさに、その瞬間、湾岸戦争が始まっていたのだ。
★with(1990/山田洋次監督映画「息子」イメージソング-1991)

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2006年12月 3日 (日)

TOURIST

Cさんのことに触れたので、その年の4回の海外取材についての回顧談を。アポ取りしただけと書いたが、これが結構な作業だった。ひとつは時差。欧州に2回、ほぼ8、9時間のズレ。相手のビジネスアワーが朝9時にスタートとして、夜中に電話を入れなくてはならない。自宅に戻りアプローチとなる。VIPなので席を暖めてなどいない。なかなか掴まらない。現地の夕刻は当方の朝。メシどころでなく電話、出社してからもトライ。そんな日々の繰り返し。米東海岸は2回、こちらはほぼ逆転だから、夜遅くまで会社から、または未明に自宅から。

言葉も問題。対象は同胞でも、所属先の交換(オペレータ)は日本語を理解しない。共通語の英語で「○○さんを」と言っても、なかには正確な肩書きを知らず、たらいまわしになったり。秘書まで到達するのが、まず初めの関所。誰何されると、当方は日本の雑誌の編集部で、とまず答え、これが大マスコミならともかくも……。さらに「何の用か」と訊かれ、取材趣旨を必死に告げる。そりゃ、英語を使いこなした時期もあったけどさ。

もっとも、やっとのことで取材そのものは快諾されたとして、日程調整が最大の難関。たった一人のために海を渡るわけにはいかない。2人または3人くらいをまとめなければ取材経費が掛かりすぎる。相手は超多忙。それに、同じ都市とは限らない。アメリカのときはニューヨークとワシントンDCで東京・大阪並だったが、ヨーロッパは広い。オートリア・ウィーン~フランス・パリの移動で1日はつぶれる。まあ、おかげで、移動日というかオフの日が発生して、観光、もとい視察にあてられたけれど。

前述の緒方貞子さんのケースでは、国連難民高等弁務官に日本人として初の就任の直後だったので、ことさら多忙を極めていた。その週のどこかで、という約束だけでスイスに飛んだ。1件目の取材でバーゼル市に滞在中、やっと日時が確定した。ホッとしてジュネーブに入った。手前味噌だけど、日本のメディアとしては初の単独インタビュー取材だったはず。おまけに、30分程度しか割けないはずが、1時関半以上もあつきあいいただいた。にこやかに迎えてもらい無事に取材が終わる瞬間、すべての苦労が報われる。編集者冥利に尽きる。
★TOURIST(「夜会VOL.7 2/2」オリジナル曲)

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2006年12月 2日 (土)

“親愛なる者へ”

またまた知り合いと再会した。いや、再会はおかしいか。久しぶりに顔を合わせた、思わぬ場所で。でも、そこでの遭遇、まったく予期せぬ出来事でもなく……。「いいかげんにしたら~」と相方突っ込む(はず)。はい。そのうえに、しばらく音信が絶えていた人からメールをもらった。1週間で3人。さすがに、偶然か? 自問する。といって必然ではなかろう。もしそうなら、いったい、どういう運命が待っているというのか。「早く本題に入れば~」。はい。

前述の知り合いはAさん、次がBさん、メールの人をCさんとしよう。AB両氏とは似たようなプロセスでお近づきに。Aさんは当時、メーカー社員だった。老舗のその企業にはやや似つかわしくない、「個」の確立した人にみえた。つまり、ただの「サラリーマン」には思えなかった。中途入社で、そこも「いずれ辞める」と。果たしてのフリーランス。雑談に近い打ち合わせのとき、ノートPCを広げ話の内容をリアルタイムでメモしていた姿が印象的。

Bさんは当時、団体職員だったが、もともとマーケティング畑で、所属先のトーンと個人のキャラがミスマッチだった。いまは一人でコンサルタント業。ぼくが何人かの仲間と定期的にもっている集まりに誘った。メンバーなのだが、多忙ゆえ久しぶりの再会となった。多彩な経験をしていて、奥が深い。過日、ファミレスで「夜まで生トーク」した。5時間。それでも喋り足りない。先日は、コーヒーショップの閉店時間に救われた。

Cさんは同業の先輩。というか、著名なノンフィクション作家で、ぼくがまだ出版社勤めのとき、原稿をお願いしたのが最初。一緒に4回、海外取材した。11/21付け記事、実は登場人物が二人なのである。第2外国語がドイツ語で、助けられた。国連難民高等弁務官・緒方貞子さんに取材した、という戦歴を自慢するぼくだが、なに、本当はCさんがインタビュアーで、こちらはアポをアレンジしたりの同行者にすぎない。でも、トータルで1年のうち30日間くらい行動を共にしていると、少なくとも当方にはかなりの親近感が湧くもので。

飼い犬(11/19記)に生まれた仔を引き取ってもらったり。メールは、そやつが16歳の天寿全うの知らせ。合掌。冠婚葬祭は、しばし疎遠となっていた人との関係復活に寄与するというけれど。そういえば、Cさんに前回お会いしたのは、ぼくの初著の出版記念パーティだった。その前はCさんの(何十冊目かは失念)。たまには、特段の理由なく酒でも。そうか、忘年会という手がある。3人まとめてしまえ。
★“親愛なる者へ”(1979 詞のみ)

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2006年12月 1日 (金)

後悔

映画が110年前に日本(神戸市)で初めて一般公開されたのを記念し50年前に制定された「映画の日」だそうだ、しまったなあ~、昨日のネタは早まった。まあ、その記事を削除して本日付で再アップ、という裏技、禁じ手、ないわけでなく、でも、現実には、1日あたり10人でも読み手がいれば、実行するにあたわず。後悔先に立たず。いや、でも……。取り返しのつかないことなんて、実は、そうそうにはないんだと思う。

たいていは、その失敗で学んで、こんどはきちんと考えてやろうとか、ミスしないよう気をつけて、と反省したりして、実際、うまくいって、悔やむことなく。つまり、後悔は、たしかにすでに起きてしまったことに対しては立たないとしても、次には立つ。屁理屈ですけど。覆水盆に返らず、そのとおり、でも、こぼした水はまた汲めばいいし。その跡は拭けば消える。屁理屈ですけど。だけど……。

どんなに丹精込めて育てても、一発の台風で、田園は易々と荒れ、如何なる瑕疵がなくても大自然の気まぐれの前にはただ呆然とするしかないこともある、我が祖国は、そもそも、一度や二度の失敗に厳しくない。仏の顔も三度。「再チャレンジ」は国柄でもあるのだ。それを無くしてしまったのは誰だろう。不確かな自然現象を前にすれば、知恵や工夫はもちろんあるとしても、稲作など、毎年が常に、新しい未来へのチャレンジそのものなのではないのか。そうした農作物の生産に関わらない、武士とかいう階級は、くだらん伝統と面子のみを重んじ、ちょっとした過ちで腹を切る。この人たちにとっては、後悔は先に立つまいて。

ぼくらが普段、何気なく口にする「昔の日本は良かった」の「昔」って、もしかして、この、武士が支配していた時代の、その延長線上での日本の倫理観ではないのか。それは、この国に相応しいか。だいたい、明治以降の日本なんてたかが100年あまり、つい最近のことにすぎない。武士階級なんぞも、最大で人口比5%程度の圧倒的マイナーな階層に過ぎない。ただ、面白いのは、江戸では「平民」のほうが少数派であったし、「男らしさ」を強調する薩摩、つまり近代日本の支配構造の一端を担う、この藩では3割が武士だったとか。ぼくらは、しかし、「もののふ」の末裔ではないのだ。
★後悔(2000)

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