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2006年11月13日 (月)

僕たちの将来

再び「たけしの日本教育白書」ネタ。かなり以前から主張しているのだがガキにケータイを持たせてはいけない。クルマ、飲酒・喫煙、一利はあっても害あるものは免許制ではないか。ケータイは究極の個人端末。自己責任そのもの。個の確立していない未成年に何の制限もなく持たしていいわけがない。もちろん大人だって同様だが。

電話機能だけだったらまだしも、間接的な伝達手段であるメールが諸悪の根源。21世紀のいまなお、活字(文字)への信仰が強い。「あいつがウザイ。シカとしよう」、メッセージは瞬時に抵抗なく多数に伝わる。文字は人を殺す。そのうえ、論理を飛び越える画像の恐ろしさ。こうした欠点をきちんと論議してこなかったのは、明らかに怠慢だ。

そもそも、売らんがための無料配布、そんなことが許されてよかったのか。携帯電話会社の責任は大きい。都知事も北野武も太田光も、そして久米宏までもが指摘しないのは不思議だ。大半の小学生が持つというのに有害サイトへのアクセス制限などを説明せずに契約する事実が少なくないそうだ。厳しく取り締まれるはずだ。何故やらない?

竹中某なる者を担当大臣に市場原理至上主義を導入し、あまりにも多くのことを商売にし、かつ商売優先にしたツケは必ず払うことになる。しかし、まだ間に合う。久米宏は「もう後戻りできない」と断定したが、クルマだって当初は運転免許などなかった。いまからでも、年齢制限を課すなど、できることはある。ぼくたちの未来は、ぼくたちが選ぶのだ。

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コメント

携帯電話ですか。
私の子供は高校から持たせています。
地方田舎在住なので中学生の持つ割合は多分少ないかと。小学生ならなおさら。
でもゼロではありません。

でもまぁ、私も高校生からは持たせていますが、やはりまだ早いのでしょうか?
ネットの利便性と危険性については事ある毎に説明はしていますが。。
携帯のメールは便利ですが嫌いです。
嫌いですが便利がいいので使っています。矛盾ですね。
携帯メールもですが、携帯のサイトはホント嫌です。サイト機能なんて無くなればいいのに。
人間、少々不便な方が良いんですよ。
便利すぎる世の中ってのも考えモノ。
子供にとって携帯メールを使いこなすには(精神面において)難しいです。
大人にとって些細な事柄にさえ傷つき易い年齢なのですから。

投稿: 一加葉 | 2006年11月13日 (月) 15時11分

「たけし・・」の番組は、9時ごろのパブリックスクールの辺りを見ただけで、発言資格はありません。
ただ、無管理販売のケース紹介のあとでたけしが、「気持ち悪いー」というように発言したことに注目させられました。
そのほかでも、たけしは「立派」なケースには「いかがか」とコメントする。それがたけしの分と言えばそれまでかも知れませんが、そうは立派なことが通らないこと、純粋培養された場合の罪と罰を考えたら、雑種が生き残れる教育は何かと考えたほうがいいと思います。
パブリックスクールのケースのあとで、その教育を受けた人たちが植民地で略奪をしているし、アヘン戦争をしているなどとコメントして周りをあわてさせていました。
実際にエリート教育は、「帝国」主義を増長させる手段となりますから、必ずしもいいとは言えません。これについては、また別の場で。

hiperkさんの言う「ガキに携帯を持たせるな」論は、成人までは飲酒・喫煙禁止と同じで、決めればそれなりの効果があるかもしれませんが、携帯ブンカはそのリテラシーを社会の責任として確立すべきことと思います。新しい機械や道具は、その使用法を製作者の責任として普及させるのがルールです。本田宗一郎は、それをまずまず実行しました。いま自動車メーカーは、利益の多くを自動車利用術の改善に振り向けるべきです。携帯電話の製作・販売・利用促進会社は、自主的にそのリテラシー向上に資力を注ぐよう努力してほしい。国家に取り締まらせると、建前だけで済ませられる。民間ではそれよりも悪いとも言えますが。

援助交際の問題でも、取締りと処罰の方法が議論されました。
いじめの場合も、ほぼ同じようです。

たけしが考えているかどうかはよく分かりませんが、喧嘩の仕方やいじめからの逃げ方、携帯やゲームへのはまりからどう脱するかは、成長過程で自然に身につけるようにしたほうがいいでしょう。もちろん、いじめから逃げにくく追い込まれる人が悪いというのではありません。いじめられるのは多数者の中から選ばれます。その多数者の中からいじめ側に加担する弱い人がこれまた多数いる。周辺の大人は、そのいずれもが大人の世界にもあることと子供たちに知らせ、どのような振る舞いをするのがいいかを学習させてほしい。結構、会社でいじめに合っているお父さん、お母さんがいるはず。我が身を削って家庭に学習機会を増やしましょう。

それにしても、電車の中で、親子が並んで座って携帯電話でゲームをしている姿をよく見るようになりました。「持たせるな」ではなく、「早く卒業させよう」がいいのでは。その卒業式は親子同席を厳守とする。いずれにしろ問題は、大人にあるように思います。

投稿: seigu | 2006年11月13日 (月) 15時48分

一加葉さんのところは高校生になってから、ですか、ふむ、少し早い気はしますが。もちろん、カギは親の姿勢です。大人がどのように使い方を教えるか、そこが大切でしょう。
ウチは高3の夏から使い始めましたが、これは突発的な特殊事情でして。それがなければ高校卒業まで一切禁止。当時で学年60人余のなかでケータイを持っていなかったのはほんの数人だと聞きました。

seiguさんのお考えは、既成事実容認のようですが、それでも「親子が並んで座って携帯電話でゲームをしている姿」を善しとは思ってらっしゃらない様子。まさに「問題は、大人に」だと思います。ぼくも通常、国家の力による規制には賛成しないのですが、コトは、もはや「自主規制」の域を超えたと感じています。
「早く卒業させよう」は、もう無理でしょう。小学生に持たせる親がいるし、その数はどんどん増えていく気配です。すでに幼稚園の段階で発生しているそうです。

たけしをはじめとする80年代以降のお笑いの肝は、従来の「建て前」を「本音」で笑い飛ばしたところにあると思います。「こうあるべき」に対する「実はこうなんだ」の面白さは、アンチテーゼの本(もと)のテーゼが前提です。
ところが、いまや建て前の絶対律が崩れてしまっている。親が子にたいして教えなければいけない「道徳律」が霧散してしまっている。
「いじめられる側にも実は非があるのでは」という「本音」は、少なくとも子どもの目の前で口にしてはいけないのに。この国には、いま、あまりに多くの「本音」が垂れ流されていて、本来死守すべき「建て前」が見えなくなってしまった。
子どもの成長とは、親や大人が持っている「建て前」を崩し、乗り越えていく姿ではないでしょうか。なのに、乗り越えるべき壁がないのです。
だから、「人を殺して何が悪い」とか「自分のカラダを売ることで他人に迷惑を掛けていない」といったバカな言い分が通ってしまうのです。
誰が何と言おうと、「目上の人は敬う」「人を殺してはいけない」「売春はしていけない」「いじめはしてはいけない」のです。ぼくは、そう信じます。

投稿: hiperk | 2006年11月14日 (火) 03時04分

「無管理販売のケース」は、ぼくも気味が悪いと感じました。
ストーリーは、正確には覚えていませんが、だいたいこういうものです。人を信用する、ということで誰も管理しない販売方法を、ある学校(学年かな)の購買部が選択していたところ、ある日、50円の差額が発生した。売上げが多かったのだ。何故か、というところから話は、わけのわからない方向に進みます。
「信用」が崩れた、とかいう結論になるのです。まったく意味不明です。たまたま誰かが50円、間違って余分に入れた(支払った)だけかもしれません。たぶん、そうなのではないかと思います。それが自然。ところが、この学校・クラスの関係者(こども)たちは、何だか犯人探しに狂奔、結局、誰も名乗りあげなかったことで、これまでの信頼関係が崩れた、という結論に達する。そして、うまく進んでいた実績を「ゼロ」にリセットする。
何やら、相当に悲壮な決意で。不思議だ。原因はいろいろと考えられるはず。なのに、信頼関係がどうしたこうしたとばかり。これ、「信用」とか「信頼」とかを過大評価、というよりは、ドグマのように扱っている。だから、ぼくも後味の悪い思いをした。
たけしがどう感じたのか、わかりませんし、代弁するつもりもなく。ただ、ぼくにも気味の悪いエピソードでしたよ。

投稿: hiperk | 2006年11月14日 (火) 03時29分

池田潔の『自由と自律』(岩波新書)の中に、決めた決まりは守るべしというくだりがあります。hiperkさんの言うおとり。その決めることと決め方が問題。「守・破・離」は普遍的です。

無管理販売は、取材陣の誘導が勝っていたのではとかんぐりたくなります。もっと、おおらかな指導があっていいと思います。そのケースの前提として無監督試験を実施しているとしていたようですが、性善説も場合による。
短大にいた頃は、試験監督はカンニングさせないためにするので、発見した教師は自分の監督が悪かったのだと知るべしと言っていたのですが、それでもカンニングしそうな生徒を監視して見つけることに熱心な先生がいて困りました。そういう生徒には、日頃の指導が重要。摘発は最後の手段です。

自殺シンドロームは、南無阿弥陀仏でしのぐしかないといまの愚生は思っています。他人にそう言うわけではありませんが。

投稿: seigu | 2006年11月14日 (火) 07時47分

「自殺シンドローム」、そうですね、そう呼ぶしかない状態ですね。悲惨な時代です。無宗教の身ですが、思わず、何かに祈りたくなります。

投稿: hiperk | 2006年11月15日 (水) 00時44分

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